私とポメラニアンと倦怠期
「じんぺーちゃんがポメラニアンになった」
「……は?」
萩原くんのその言葉に私は持っていた本を落とした、本の背表紙が足の甲に当たって痛かった。
この世界には変な性別がある、それがポメガバースというやつだ。人間の中に少ない人数だがポメラニアンになる性別があるらしい。その性別は疲れきってしまったらポメラニアンになるという厄介なものだ。ポメラニアンから人間に戻るためには目一杯甘やかさなくてはならない。それが唯一の条件で私は彼氏がポメラニアンになるなんて思いもしなかった。
萩原くん曰く仕事が異常に忙しく休む暇がなかったと話していた、ポメラニアンになった彼氏は私の足元でくるくると回っている。目が回らないのか。そんなことを思いながら萩原くんを見ると萩原くんも困った表情を浮かべていた。
「じんぺーちゃんを甘やかそうとしても噛んでくるし威嚇してくるからもう彼女のきみに任せるしかなくてね」
「はぁ」
「じゃあ戻るまでよろしく! 休みは戻ってから一週間休めるって伝えておいて!」
そう言って萩原くんは彼氏の服を置いて帰って行った。足元でくるくると回っていた彼氏は疲れたのか寝ている。それを蹴らないように、本を脇に挟んで腕に抱きかかえてソファのあるところまで戻り、ソファに座った。甘やかせと言われてもどうしろと。第一私と彼氏は倦怠期というやつだった。
長年付き合っていると倦怠期もある、そんな期間が長く続いていた。陣平は寮生活だし私も一人暮らしをしている。結婚という文字を見て危機感を抱く年齢でもある。だからといって勢いで結婚するタイプでもないし、慎重になってしまう。陣平と、結婚したいのか。自分でそう思うようになってから、どうしてか倦怠期に入ってしまった。陣平のことを、どう思っているかわからなくなった。そんな彼がポメラニアンになった。どうしろと。
家に犬用の遊ぶためのグッズがないのにポメラニアン化した陣平は私の服に包まれてすやすやしていた。いや、脱いだ服を求めていたが流石に汚いし私が嫌だったので洗ってある服を渡すと犬でもするのかと思ったほど不貞腐れた顔をした陣平に私も何とも言えない顔をした。犬でもそんな顔するのか、でも渡さないからな。そう思いながら陣平を見る。身体が上下に動いているから生きていることがわかる。ご飯どうしようかな、陣平の分も用意しなきゃだしどうしようか。そう思っていると目をパチリと開けてこちらを見る。陣平は私の服を踏みつけてこちらに近付いてくる。手にすり寄って来て撫でろと言わんばかりに頭を擦りつけてくる。頭を撫でると満足と言わんばかりに膝の上に乗ってこちらをちらりと見てそのまま腹に顔を摺り寄せて来た。機嫌を取れと言わんばかりの態度にため息をこぼす。確かに陣平が優秀な人材だということはわかっている、まぁ短気で喧嘩っ早いところは傷だが。そんな陣平と私は釣り合っているのか。いつしか陣平に劣等感を抱きだした。それからだと思う、あまり連絡をしなくなったのは。
陣平は私のことをどう思っているのかはわからない、誰しも他人の考えていることなどわからない。当たり前のことだがそれが私にとっては憂鬱になった。陣平のご飯を買いに行くついでに自分のご飯も買おうと思って外に出かける準備をする。陣平は外に出られるのかと勘違いして私の周りをまわっていたが連れていくつもりはない。第一リードを持っていないしハーネスやカラーも持っていないというのに出かけられるはずがない。外に出るときには陣平はじとりとした目でこちらを見ていたが知らぬふりをして外に出た。陣平がいなかったら外でご飯もできるがそんな薄情でもないので近くのスーパーに向かった。ポメガバース用のペットフードが棚に陳列してありそれをいくつか選んでペット用のミルクもカゴに入れて自分のご飯もついでにカゴに入れてそのままレジに向かった。コインケースにお金を出してそのままエコバッグに購入したものを入れて家に帰る。するとずっと玄関にいたのか陣平がその場にへたりこんでいて私はそれを見てなんとも言わず蹴らないようにして靴を脱いで歩く。ついでに購入したペットフードの皿二枚にミルクとペットフードを入れて陣平に差し出すとこちらを見て食べ始めた、よほどお腹が空いていたのかこちらのご飯の用意が終わる頃には食べ終わっていてソファの上で横になっていた。ポメラニアンだから毛が長いので粘着カーペットクリーナーが必要だなと思いながらご飯を食べる。陣平を甘やかす、どうしたらいいのか私には見当がつかなかった。
部屋の中を移動する度についてくる陣平を蹴らないよう配慮しながら携帯でポメガバースについて検索していた。具体的にどう対処しているのかを知りたくて検索をかけてもその対処は甘やかすのみで携帯を投げてやろうかと思ったが携帯にかけた金額を声に出して止めた。陣平は私の挙動に驚いていたがすぐにソファの上でくるまって寝た。こちらはお前に苦労しているんだが。甘やかすと言っても何をしろと。そもそも恋人を甘やかすってなんだ。
検索しても意味が分からないものばかりで余計に頭を抱えることになった。陣平のほしいものなんてわからないし趣味嗜好なんて機械にしか食指が動かない男と認識しているためよくわからなかった。今も足元にいる陣平に対して蹴らないよう配慮するしかなく、明日は仕事である。甘やかすなら今日中だ、しかし何をしていいかわからない私にとってどうすべきかわからなかった。倦怠期、あまり連絡をしない、なのにどうして私には威嚇も攻撃もしてこないのか。まったくわからないことだらけだった。
「陣平は、私のこと、どう思っていたのかな」
独り言をつぶやいて、陣平を見る。陣平はきょとんとした顔で私を見る。頭を撫でてみると存外陣平は気持ちよさげでもっとと強請るように手に頭を擦りつけてくる。甘やかすってこういうことなのかな、そう思いながら陣平を見る。陣平を腕に抱いて抱きしめる。昔はよくしてもらっていたのに今では何もしていない。むしろ私から抱きしめるのはなかった気がする。陣平は身動きを止めて私の思うがままに身を任せてきた。顔と顔を合わせる。今まで聞けなかったことを聞いた。
「ねぇ、私のこと、どう思っているの」
なーんて、喋りかけても返事が来ないことくらいわかっていた。だから陣平を胸の中に入れて抱きしめた。するといきなりポメラニアンが人間になった。
「……は?」
「あ、戻った」
そう言った陣平は裸のままで私は口をあんぐり開けたまま陣平を見ていた。
陣平はいそいそと服を着て私の横に座った。さも当然のように座るものだから一人分空けた。
「……なんで空けるんだよ」
「いや、だって」
「携帯で確認したら一週間休み貰えるから一週間ここにいるからな」
「なんで」
「恋人の家にいてもいいだろ」
そう言って陣平は欠伸をした。私は胸にくすぶった感情をどう処理すべきか考えて口を開こうとしたら、陣平が先に口を開いた。
「なぁ、お前がどうして連絡をしなくなったのかは聞かない。でも俺らは恋人だろ、言いたいことがあれば聞くから教えてくれ」
その言葉に私は口を開いて、動かした。
「ねぇ、私のこと、どう思ってるの」
「めんどくさい彼女」
「は?」
「口数は少ないし言いたいことを我慢して何も言わない面倒で可愛い彼女」
そして陣平は私を見る。
「俺が察しのいい彼氏じゃなきゃお前なんてフラれてるぞ」
「陣平が察しのいい彼氏とか嘘でしょ」
「お前な」
「……陣平が優秀なのはわかってる、だから劣等感を抱いたの」
そう言うと陣平は笑いだした。
「何が可笑しいの」
「そのままのお前だから好きになったんだよ、劣等感なんて抱かなくていいだろ。釣り合う釣り合わないなんて考えなくていいんだよ」
そう言って陣平は一人分空けた空間を詰めて私の腰を抱いた。
「俺は別れるつもりなんてないからな」
「でしょうね」
「なんだよ」
「まぁ、いいか」
そう言って笑って陣平の肩に寄りかかった。
「好きだよ、陣平」
そう言うと陣平は笑って私の顔を見て唇を重ねてきた。
「ところで明日の用事はあるのか?」
「明日は仕事ですので一人でお過ごしください」