十二年前のプロポーズ

 松田陣平は私より一回り年上の幼馴染である。小さな頃から私の世界では彼の存在が当たり前のようにあった。そんな私は十二年前、彼にプロポーズをした。保育所で覚えた草花で作る指輪を彼にあげて、舌足らずに結婚を申し込んだ。彼はくしゃりと笑って大きくなったらな、そう言った。私はそれだけで嬉しかった、今思えば遠回しに断ったのだろう。そんなことを覚えている。小さな頃、その記憶だけが鮮明だった。そんな記憶をどうして思い返していたのかというと一人で珈琲チェーン店に入って硝子越しに彼を見かけたから。彼は隣に女性を連れていた。綺麗な人であった。多分その人と付き合っているのかな、そう思ってしまった。だって私といるより嬉しそうに笑っていたから。以前より会わなくなった彼、仕事が忙しくて私に構う暇などないのだろう。彼にとっていい子でいたかったから我慢して連絡もしないようにしてた。でも、それは単なる都合のいい子と変わらなかった。多分彼にとって私は単なる幼馴染で恋人ではないのだから。そう思うと何だか泣けなかった。

 珈琲チェーン店でいつものカフェオレを飲んでそのまま帰ろうとしたら店内に仲のいい同級生がいた。たしか女子高校生探偵をしている世良ちゃんだった。世良ちゃんと目が合い、彼女はこちらに近付いてきた。
「今から帰るところかい?」
「そうだよ」
「良かったら話し相手になってくれないかな、お代は珈琲一杯でいい?」
「いいけど」
世良ちゃんはぱちりとウインクをしてそのままレジに向かった。私は持っていた荷物を二人掛けテーブルに置いて世良ちゃんを待つ。世良ちゃんは珈琲を二つ持ってきた。
「おまたせ」
「そんなに待ってないよ」
テーブルに置いて世良ちゃんから珈琲を受け取る。そのままコップに口にして飲む。ほんのり酸味が強い。そんなことを思いながら飲むと世良ちゃんは笑っていた。
「なあに」
「いや、ブラックでも飲めるんだね」
「幼馴染の影響で、ね」
先ほど見た光景を思い出す、嫌だなぁと思いながら目の前にいる世良ちゃんに笑いかける。世良ちゃんは何か感づいたようにして笑う。何だろう、嫌な予感がする。
「さっきまで暗い顔をしていたのはその幼馴染が原因だね」
「そんな顔してた?」
「長年ではないけれども友達だし、探偵を舐めないでもらいたいね」
なんだ、ばれていたのか。そう思って苦笑してしまう。
「さっきね、小さい頃結婚の約束をした相手に恋人がいるって知っちゃって」
「それは酷い奴だね」
「でも小さい頃だから時効なのかなって思った自分もいて、なんだか悲しくなったの」
そう言うと世良ちゃんは私の目元を指でなでる。思わずびっくりして世良ちゃんを見る。
「僕は、泣きたいときに泣けばいいと思うけれど」
「泣きたいわけじゃ」
「悲しかったんだろ?」
言葉を詰まらせる。確かに悲しかった、泣きたかったのかもしれない。でも、泣くわけにはいかない。
「だい、じょうぶ」
「そっか」
世良ちゃんはそう言って珈琲を一口飲んだ。
「君に真似てブラックで飲んだけれども苦いね」
「そう?」
そう言う世良ちゃんに私はつい笑ってしまった。

 家に帰り部屋にこもり、ベッドの上に寝転ぶ。世良ちゃんの前では強がったけれども本当は泣きそうだった。小さい頃いや今も、ずっと好きな相手に恋人がいた。それだけでつらかった。心が引きちぎれそうだった。それでも好き、でもこの想いを伝えたらこの関係は崩れるだろう。臆病な自分がいて嫌になった。それでも好き、好きなのに。じわじわと視界は歪んでいき枕に涙が零れた。好き、そう伝えられたらどんな幸せなんだろうか、いや幸せじゃないかもしれない。多分否おそらく私はフラれる。相手がいるから、わかっている、それでも伝えたら何かが変わるかもしれない。変わってどうするの、冷静な自分がいる。今のままがいいと言っていたじゃない、変わってどうするの。するとどんどんと心は冷めていく。涙は止まって制服の裾で涙を拭う。スカートにしわが出来たらどうしよう、そう思ってベッドから立ち上がって着替えようとするとノックする音が聞こえた。誰だろう、そう思ってそのまま出ると、先程見た幼馴染の陣平くんだった。
「ど、どうかした?」
「おばさんがご飯食べるから早くしろって言ってたぞ」
「着替えてから行くって伝えておいて」
「なぁ」
「なに?」
「泣いたのか?」
思わず言葉が詰まる。陣平くんにはお見通しなのかな、思わず笑っちゃいそうだが我慢する。
「そうかも」
「他人事かよ」
「早く着替えるから出ていって」
陣平くんの肩を押して出て行かせようとすると陣平くんは何か言いたそうな顔をして出て行った。私は扉を閉めてため息を吐いた。どうしてわかっちゃうのかな、期待しちゃうじゃない。じわりと止まった涙がこみ上げそうだったがそれを我慢した。

 陣平くんは私の家に来たときはいつも通り私の横の席に座ってご飯を食べる。私はそれを当たり前としていた。でもこれからは来ないのかな、彼女さんいるのにどうして幼馴染、しかも女の家で食べてるのかな。もう食べに来ることはなくなるのかな。そんなことを考えながらご飯を食べるといつもの味のはずなのに、味がしなかった。ただ味のしないものを咀嚼しているような感覚に陥ってしまう。どうしてだろうと思いながら食べていた。

 リビングのソファで一人、ドラマを見ている。よくある恋愛ドラマで幼馴染が紆余曲折してくっつく話。それは所詮ドラマであって現実とは違う。幼馴染なんて、恋愛対象にならない。家族に近く恋人とはほど遠い存在だ。誰かがそんなことを言っていた。でも学校のなかで有名なカップル、工藤くんと毛利さんは幼馴染でカップルらしい。羨ましいな、私もそんな風になりたかった。そもそも年齢差的に無理なことぐらいわかっているけれども。犯罪だし、警察官だし。そんなことを考えながら横にあったクッションを抱きしめる。このまま寝たいなぁなんて思いながらドラマを見る。
「寝るなよ」
「寝ないよ」
こういう扱いをしてくる陣平くんが私のことを恋愛対象に見ているはずがない。そんなことを思って悲しくなる。ドラマでは幸せになるのにな。童話でも幸せになるのに私ときたら何をしているのだろうか。ぼんやりと考えて考えるのをやめた。陣平くんにはいい恋人がいて、私は諦める。そう決めた。陣平くんにとっていい幼馴染であるよう頑張ろう。だからこの長年続いた初恋を諦める。そう決めた。

「本当にそれでいいの?」
 世良ちゃんがそう聞いてきた。好きな幼馴染を諦める、そう伝えたらこう返ってきた。
「うん」
「本当にそれでいいと思ってるの?」
「歳の差も含めて考えたら、その方がいいのかなって」
「後悔、しないの?」
後悔、するだろう。わかっている、だけれども。
「今更想いを伝えたって、相手は迷惑するだけだよ」
そう言うと世良ちゃんは複雑そうな顔をした。そういえば世良ちゃんは陣平くんに会っているかもしれない。今は刑事だって聞いた、機動隊から離れたとも聞いたし。
「世良ちゃんは私の幼馴染に会っているかもね」
そう笑うと世良ちゃんはそっか、そう呟いた。

 世良ちゃんを見かけた。どうやら事件に巻き込まれたみたいで現場に警察の人もいる。世良ちゃんは探偵だからな、すごい人なんだよね。そこに私の幼馴染、陣平くんもいた。すごい偶然だなと思って横を通っていった。米花町ではよくあることだし気にしない。そういえば今日のお昼ご飯どうしようかな、お母さんいないから外で食べようかな、そう思って歩いていると私の名前を呼ばれた。誰だろう、そう思って振り返ると世良ちゃんだった。
「どうしたの?」
「声ぐらいかけてくれてもいいだろ?」
「真剣そうだったから、いいかなって」
そう言うと世良ちゃんは頬を膨らます。可愛いところもあるなと思ってつい笑ってしまう。
「ごめんね、笑っちゃって」
「そうだ、お詫びにご飯一緒に食べないか?」
世良ちゃんはそう提案してきて私は頷いた。どうやらまだ推理の途中らしく嫌ではなかったら一緒にいてほしいと言われたが終わる頃までぶらぶらしているから終わったら連絡してほしいと伝えると納得してないような顔で了解してくれた。世良ちゃんはそのまま引き返していって現場に戻っていった。そして陣平くんがこちらを見ていた。どうかしたのかな、そう思って首をかしげた。

 世良ちゃんから連絡があってこれからご飯を一緒に食べるのは難しいと連絡が来た。それじゃあどうしようか。
「ねぇ、お姉さん。今一人?」
すると知らない人から声をかけられた。嫌だなぁと思って鞄を持ち直す。
「今急いでるので」
「一人だよね、俺らとご飯しない?」
話を聞け、そう思って嫌な顔をすると相手はへらへら笑っている。正直嫌な相手だ。そう思って逃げるようにその場から離れようとするが腕を捕まれそうになった。嫌だ、そう思ったときにもう片方の腕を引っ張られて引っ張ってきた相手の胸に身体がぶつかる。
「俺のになんかようか」
聞き覚えのある声より少し低くて完全に怒っているような声だった。顔をあげると陣平くんが立っていた。ナンパしてきた相手は顔を青ざめて何処かに行ってしまった。陣平くんにお礼を言おうとしたら陣平くんはどこか顔をしかめている。
「陣平くん、ありがと」
「あいつはどうした」
「あいつ?」
誰のことだろうと思って首をかしげる。陣平くんはため息を吐いた。
「喋ってただろ、あいつ」
「世良ちゃん?」
「ちゃん付けしてるのか?」
「あれ、世良ちゃんは女の子だよ」
陣平さんは何故か固まってしまった。どうかしたのだろうか。そんなことを考えていると陣平くんはため息をまた吐いた。
「幸せが逃げるよ、陣平くん」
「誰のせいだと思って…… 」
正直今の状況は駄目だと思う。彼女がいるのに私なんかを抱き寄せているようなものだ。陣平くんの肩を叩いて離れようとしたら逆に押さえ込まれた。なんで!?
「人の気持ちも知らないで」
「なんて言った?」
「なんでもない」
低く小さく呟いた言葉は聞こえなかったので聞き返したのに、陣平くんは随分身勝手な男だと思う。

 次の日、世良ちゃんは私に爆弾発言をした。
「君の幼馴染に宣戦布告したから!」
「は?」
何を言ってるのかわからなくてとりあえず首をかしげた。

 幼馴染といっても、家が隣なだけであって歳も離れているので関わりはないといえばない。それでも陣平くんが好きだった。もう過去形だけれども。世良ちゃんは陣平くんに何を宣戦布告したのだろうか。疑問に思いながらこの間の埋め合わせでいつもの珈琲チェーン店で珈琲とお菓子を奢ってくれた。此処のケーキは美味しいので好きだったりする。世良ちゃんも頼んだらしく手を付けられていない私が食べているのとは違うケーキがもう一つテーブルの上にあった。
「美味しいかい?」
「とっても」
おもわず笑みが零れ落ちてしまうほど好きである。パティシエは素敵な魔法使いなんだと思う。ケーキを食べると幸せな気分になるのだから。もう一口、ケーキを崩さないようにして一口サイズにしてケーキを食べていると世良ちゃんはふふっと笑った。
「本当に幸せそうに食べるよね」
「色んな人に言われる、そんなに幸せそうかな」
「そうだね」
疑問に思いながら珈琲を飲む。世良ちゃんは携帯で時間を確認していた。何かあるのだろうか、もしかして用事があったりするのか。だとしたら申し訳ないことをしたのではないのだろうか。不安になっていると世良ちゃんは外を確認した。外、誰かいるのか。そう思って私も外を見ようとすると世良ちゃんは私の顎に手を触れた。どうかしたのだろうか、世良ちゃんを見ると顔を近づけて私の口元を指でなぞる。口元に生クリームが付いていたらしく世良ちゃんの指には生クリームが付いていた。それを世良ちゃんは指を口に銜えて離れていく。
「ごちそうさま」
なんで顔を近づけたのだろうか。疑問符を頭に浮かべながら最後の一口のケーキをほおばると誰かが入ってきたようで冷たい風が店の中に入る。誰だろうと思ったら陣平くんだった。思わず目を見開いて陣平くんを見る。革靴であるため足音が響く。サングラスをしているのに、どうしてか怒っているのがよくわかる。どうして、そんなに怒っているのかわからずただ不思議に思っていると陣平くんは私たちが座っている席に来た。
「帰るぞ」
「へ?」
陣平くんは私の鞄を持って世良ちゃんをちらりと見てそのまま帰ろうとする。
「世良ちゃん、また明日。陣平くん、待って!」
「ばいばーい」
世良ちゃんは笑って手を振る。私は手を振って陣平くんの後を追う。外に出ると寒くてコートを羽織って走って陣平くんの後を追う。
「陣平くん、待って!」
その言葉に陣平くんは立ち止まった。私は荒い息を整えようとすると陣平くんはこちらを見ていた。どうかしたのだろうか、陣平くんを見ると陣平くんの瞳はサングラスで隠されている。何を思っているのかわからなくてただ困惑した。彼の名前を呼ぼうとしたらごつりと顔に何かが当たった。それはサングラスでどうしてサングラスが当たったかわからなくて困惑していると身体を引き寄せられて今度はサングラスを外した陣平くんの顔が目の前にあった。目をうっすら閉じて唇が私の唇に触れた。私は目を見開いた。どうして、陣平くんは私にキスをしているの。

 陣平くんから鞄を奪い取って自分の家に走って帰ってきた。なんで、なんで、なんで。その言葉が頭の中でまわる。どうして、陣平くんは私なんかにキスをしたの。彼女がいるんじゃないの。どうして、私に陣平くんはキスをしたの。わからなくて、混乱して思わず唇に触れた。少しかさついてやわらかかった唇。ねえ、どうして陣平くんは私にキスをしたの。答えがわからなくて嫌になる。私のこと好きになるわけがない、わかっている。でもあのキス何なの。わからなくて目に浮かんだ涙を拭った。

 いつもは使わない頭を使ったせいか熱が出た。学校には休むと連絡して家で一人でいる。手に持っている携帯には休んだことを心配する友達から連絡が来ていた。ベッドに横になっていればいいものの手持無沙汰でリビングのソファに座っている。そろそろ試験が近いのに何をしているのだろうか、ぼんやりとしながら勉強でもしようかなと思って問題集とノートを持ってきた。試験の範囲の紙をもらっているからそれを見ながら問題集を開く。ぼんやりしているのに勉強をしなくてはいけない。そうでもしなければ思い出してしまいそうだったから。思い出ないようにしなきゃ、そうじゃなきゃ駄目な気がする。そうじゃなきゃ、また陣平くんへの想いが出て来るから。一度は諦めたのに、どうして。諦めなきゃいけないのに。叶わない恋なのに。頭ではわかっている、でも心が、納得していない。どうして、こんなに好きになってしまったの。

 その日の夕食の前に母親が思い出したように口にした。
「明日からお父さんと旅行するって言ったわよね」
「明日なの?」
「そう、一日留守にするから」
「そうなんだ」
それで終わりだと思ったらまさかの爆弾発言をした。
「だから明日陣平くん来るわよ」
「なんで?」
なぜそういうことに繋がるのかわからなかった。

 母親の話を聞くと旅行には行きたい、けれども一人娘を一人で置いて行くのは不安、なら幼馴染の陣平くんと一緒にいてもらえないかというとんでも論を考えたらしく私は頭を抱えたかった。一人で置いて行くのは不安だけれども大人の男の人と一人娘が一緒なのは平気なのだろうかこの母親は。多分陣平くんは警察官だからという理由で安心しているのだろうか。たしかに試験中だから旅行にはついていけないし夫婦水入らずの旅行だろうから私ははっきり言えば邪魔だと思う。それでも、陣平くんと一緒は嫌だ。嫌だ無理と言っても母親は頼んでしまったから無理だときっぱり言った。なんでそこは頑固なのだろうか。料理は出来るといえば人並みにできる方だと思う。しかしなぜ陣平くんはこのことを引き受けたのだろうか。一人暮らしをしていると聞いていたのに。どうしてだろうな、そんなことを思いながらノートにシャープペンシルを走らせる。そろそろ数学の問題を真面目に解かないといけない。ぼんやりしている暇はなかった。わからないところを先生に聞かなくてはならない。そう思って問題を解いてた。次の日のことを忘れて。

 次の日、親は飛行機の時間に間に合うように出て行った。一人でトーストをかじりインスタントの珈琲を飲む。そろそろ出かけようと思ってコートと鞄を持ってコートを羽織って鞄を持って玄関で革靴を履いて扉を開けた。変わらない今日がまた始まった。

 学校が終わって友達と話ながら放課後学校に残って勉強するか話していたらなんだか廊下が騒がしい。どうしたのだろうか、そんなことを考えているとどうやら校門にイケメンなスーツを着たサングラスをかけた男の人がいるらしい。嫌な予感がした、携帯を見るとやはり陣平くんから迎えに来たという連絡が来ていた。友達に断りをいれて玄関に向かう。室内用の靴から革靴に変えて陣平くんの所へまっすぐ向かう。陣平くんの周りには有名な鈴木さんと毛利さんと世良ちゃんがいた。知り合いなのかな、少し心がぎゅっと握られたようになる。なんでだろ。

「陣平くん!」
「来たか」
「どうしたの」
「松田刑事は君を待っていたらしくてね」
世良ちゃんが事情を説明してくれた。どうして私を待っていたのだろうか。疑問符を頭に浮かべていると鈴木さんと毛利さんが陣平くんに何か聞きたそうでうずうずしていた。それを知ってか知らずか陣平くんは私の腕を掴んだ。
「行くぞ」
「えっ、ちょっと!」
「ばいばーい」
世良ちゃんが手を振るのでもう片方の手で手を振り返す。陣平くんの足の長さと私の脚の長さは一緒じゃないからもう少しゆっくり歩いてくれないのかな。そう思いながら陣平くんの横顔を見る。何を考えているのかわからない彼。それはサングラスをかけることでよりわからなくなった。
「陣平くん、腕、離して。一人で歩けるよ」
それでも陣平くんは腕を離さなかった。それは私の家の前まで続いた。陣平くんは腕を離した。
「今日、泊まるからな」
「えっ、荷物は?」
「これから取りに行く、必ず来るから開けろよ」
そう言って陣平くんはそのまま隣の陣平くんの実家に行ってしまった。多分実家に荷物を置いていて、取りに行ったのだろう。そう考えて玄関の扉の鍵を開けて家に入った。ただいま、そう言っても誰も返事をしない。それは当たり前で思わず苦笑してしまった。癖は治らないな、そう思ってリビングに鞄を置く。手洗いうがいをしてコートを脱いで自分の部屋で着替えているとチャイムが鳴った。着替え終わってから玄関に向かい扉を開けると陣平くんだった。
「確認ぐらいしろ」
「あ、忘れてた」
陣平くんはため息を漏らして家の中に入る。荷物を客間に置いてリビングに来た陣平くんは私の横に座った。
「さみーな」
「そうだね」
この人は、私にキスをしたことを忘れたのだろうか。もしかしてイケメンだからキスぐらい何とも思っていないのかもしれない。そう考えると考え込んで熱を出した自分が馬鹿みたいに思えてきた。ファーストキス、だったのに。陣平くんはテレビをつけてニュースを見ていた。私は横で持ち帰ってきた問題集と教科書を開いて問題を解いていく。昨日分からなかったところは先生に聞いていたのでその復習を中心にやっていた。
「相変わらず真面目だな」
「勉強しなきゃいいとこ行けないからね」
陣平くんに目もくれずただ問題を解く。そうしなきゃキスされたことを思い出しそうだったから。陣平くんはただそうかと言ってテレビを眺めていた。

 こんなものか、そう思ってノートを閉じる。陣平くんを見ると寝息を立てて寝ていた。疲れていたのかなと思い、時計を確認してご飯の用意をしなくてはならない時間だった。ごはん、どれくらい食べるのだろうか。とりあえず二合炊いておこう。炊飯器の準備をしてご飯を炊く。保存容器に入っている今日のおかずを鍋に移して温める。そろそろ温まったかなと思って火を消して皿に移してテーブルに並べた。ごはんももうそろそろ炊ける頃なので陣平くんを起こそう、そう思って陣平くんに近付く。
「陣平くん、ご飯できたよ」
陣平くんは起きてくれなくてどうしようかと思いながら陣平くんの肩に触れて揺らすと陣平くんはまだ起きない。どうしたら起きるのだろうか、考えても何も浮かばない。そういえば、眠りの森の美女は王子様のキスで目覚めたな。いやいや起きるわけがないし陣平くんは男性だ。王子様の方だから、でも起きない。おそるおそる陣平くんの顔を覗く。サングラスは外されて目を閉じている。キス、したら起きるのかな。綺麗な黒い瞳は閉じられていて鼻も高くていつもより寝ているためより幼く見える。ファーストキス、奪われたから、セカンドキスも奪ってほしい。そう思って陣平くんの唇に唇を重ねた。前よりかさついていない柔らかい唇から唇を離して、陣平くんから離れる。何をしているんだろうか私は。寝込みを襲うようなものだ。最低だな、私。そう思って乾いた笑いが出る。陣平くんは起きない、当たり前だ。陣平くんは私の運命の人じゃないのだから。悲しくなって涙が一粒零れた。ソファから降りようとしたら腕を掴まれた。なんで、どうして。
「じん、ぺい、くん」
陣平くんは私を見ている。
「ごめん、なさい」
「…… なんで謝るんだ」
そのまま腕を引っ張られて陣平くんの隣に座らされる。陣平くんに顔を向けられて陣平くんの瞳に涙を浮かべている私が映る。どうしてそんなに苦しそうに私を見るの。ねえ、陣平くんどうして。陣平くんが私の名前を呼ぶ。
「好きだ」
その言葉は私が一番望んでいたものだった。なんで、ねえ、彼女がいるんじゃないの。
「うそ」
「うそじゃない」
「かのじょ、いるんじゃ」
「誰がそんなことを言った」
「だって、このまえ、見かけた」
「仕事仲間だろ」
陣平くんは私の目を見る。嘘偽りなんてなかった。なんで、どうして。胸の高鳴りはどんどんと加速していく。ねえ、本当?
「わたし、じんぺいくんより、ずっとこどもだよ」
「それでも、お前が好きだ」
「ずっと、わたしをはなさないでくれる?」
「お前の性格なんてとうにわかってる、絶対に離さないし離れさせない」
「じんぺいくん」
「なんだ」
「ずっと、ずっとすき」
そう言って陣平くんに抱きつく。陣平くんは抱きしめてくれた。
「俺もお前がずっと好きだよ」

「陣平くん、そういえばなんであのときキスしたの」
 ご飯中にずっと気になっていたことを聞くと陣平くんはなんとも言えない顔をした。
「お前が世良にキスされてたのを見たから」
「してないよ?」
「は?」
「え?」
陣平くんはため息を吐いて悔しそうにしていた。そういえば世良ちゃんは陣平くんに宣戦布告をしたと言っていたが何の宣戦布告だったのだろうか。陣平くんに聞いてみようかな。
「陣平くん」
「なんだよ」
「世良ちゃんは陣平くんに宣戦布告をしたって言ってたけど何の宣戦布告だったの?」
「…… あー」
陣平くんは視線をそらして答えにくそうだ。でも気になってしまう私。陣平くんを見ていると陣平くんは私をまっすぐ見る。
「お前を奪うって言われたんだよ」
「は?」
「いつまでもお前を放っておくと僕がもらっていくって言われたんだよ、そのあとにお前と世良がキスしてるの見て焦ったからキスした」
陣平くんは顔だけではなく耳まで赤くして照れていた。可愛いなぁ、そう思ってしまう私がいる。つい笑ってしまうと陣平くんはじとりとこちらを睨むが逆効果である。
「そっかぁ、世良ちゃんにお礼言わないとね」
「お節介もほどほどにしとけって言っておけ」
くすくすと笑って箸をすすめる。陣平くんの分までお礼しておこう。珈琲とケーキでいいかな。そんなことを考えていると陣平くんは私の左手を見ていた。左手、何かあったかな。見るとなにもついていない。
「今度、指輪買いに行くか」
「…… はやくない?」
「俺の左手の薬指はお前で予約されてるのにお前の左手の薬指は予約されてないだろ」
「…… 覚えててくれたの?」
あんな小さい頃の戯言、陣平くんはたしか高校生くらいだった。小さい頃の戯言は時効だと思っていたのに。
「覚えてるに決まってるだろ」
陣平くんはそう言ってくしゃりと笑った。
「時効だと思ってた」
「どんな約束でも守ってただろ?」
「確かに」
陣平くんは私が小さい頃からずっと約束を守ってくれた。それが嬉しくて私はつい笑った。
「陣平くん」
「なんだよ」
「これからもずっと好きだよ」
陣平くんはきょとんとした顔をして、すぐに意地悪そうに笑った。
「ばーか、当たり前だろ」
「言葉に出さないとわからないものもありましてね」
「まぁ、たしかに」
陣平くんはそう言って私の左手を掴んで薬指の付け根に唇を落とした。いや、何事。
「これからここは俺が渡した指輪以外付けるなよ」
その言葉に嬉しくてつい涙が零れ落ちたのは陣平くんと私だけの秘密だ