クリスマスの奇跡
人が人を忘れていくのは声から、誰かがそう言っていた。彼が好きだった煙草を吸いながらぼんやりとそう思い出す。風が肌に突き刺さるように冷たい、季節はもうすぐクリスマス、彼が死んでからそろそろ四十九日が経つ。もうそんな月日が経ったのか、ベランダで慣れない煙草を吸って、ただそう思った。彼の声は忘れてしまった、記憶の中で彼が笑っていたのはいつだったか思い出しても思い出せない。彼が好きだった、付き合っていた。未だに彼が死ぬ前に送ってきたメールを捨てられない。内容は今までの謝罪と感謝、そして、俺なんかより素敵な人を見つけてくれ。そんなことをメールで伝えてくるなんて馬鹿な人だ。彼が死んだ日、私はテレビでニュースを見ていた。彼が観覧車に乗り込んだ刑事であると思わなかった。彼は刑事ではないと思っていたから。そのニュースを見て嫌な予感がした、だけれども彼ではないと思いこんだ、自分に思い込ませた。嫌な予感は的中するものだ、彼が死んだということを彼の同期、伊達さんから聞いた。
死にたいと思ったことはある、彼は仕事場で綺麗な女性に想われていたらしい。その人は私が彼の彼女と聞くと涙を目に浮かべながら頭を下げて謝罪をされた。彼を止められなくてごめんなさい、そう言われた。警察関係者が多かった葬儀場で彼と綺麗な女性がいい関係に見られていたということを耳にして、今すぐに死にたい、そう思った。彼は、私のことをどう思っていたのだろうか。紫煙を吐いてただ彼のことを想った。涙は出なかった、彼が死んでから涙を流せなかった。流せたらどれだけ楽なんだろうか、ぼんやりとそう思った。死んだら、彼のもとに行けるのだろうか。そんなことを考えて彼が好きだった煙草の火を消した。
彼、松田陣平とは高校のときに出会った。幼馴染の萩原研二を通じて私と彼は仲良くなった。最初は無愛想で喋らなくて何だこいつと思った。第一印象は最悪だった。しかし彼がふとした瞬間に笑ったとき、私は彼に恋に落ちた。そのときの衝動を私は覚えている。恋に落ちる音は人それぞれなようで、綺麗な音がするのが大半だと聞いたが私にしたらそれは硝子が地面にたたきつけられたような耳障りな音だった。それから私は彼のことを好きだと自覚した。その恋は研二にはばればれであった。研二は洞察力が鋭く私の恋心なんてすぐにわかったらしい。告白は彼からしてきた、最初から、会った時から好きだった。そう言われて涙を流してしまった。ああ、両想いなんだ。そう思って私は頷いた。彼とは喧嘩をしたり、焼きもちを焼いたり、仲直りをしたりして、そんな淡く炭酸のような青春時代を私たちは過ごしていた。そんなこともあったな、そう思って冷たい布団の中、一人でいた。
四年前の十一月七日、研二が死んだ。
いつも一緒だった、隣にいて当たり前だった研二が死んだ。それは私の心にとてつもない大きな傷を作った。陣平だってそうだった、親友、そういう仲だった彼らだったから。研二の死は受け入れなければならなかった、それでも出来なかった。陣平の腕の中で過呼吸を起こしながら泣いたことを覚えている。陣平だって泣きたかったはずなのに、泣いていなかった。それから彼は感情を隠すのが上手くなった。何を考えているのかわからなくなった。
次の日、携帯に着信が入った。仕事があった私は休憩の間に携帯を見て伊達さんからの電話だと知ってどうかしたのかと思って電話をかけなおした。電話の内容はどうやら彼の両親が私に渡したいものがあると言って会いたいらしい。彼の両親とは会ったことがあるがどうしていきなり、そう思ってその日の仕事を早めに切り上げて待ち合わせ場所に向かった。そこには伊達さんと彼の両親がいた。遅れて申し訳ないことを伝えて用件を聞く。すると彼の母親から小さな箱を渡された。
「陣平の部屋から、あなたに向けたこれがあったの」
彼が死んでから私は彼の部屋には行っていない、行けなかった。息を呑んでその箱を受け取って、おそるおそる中身を確認すべく箱を開けた。そこには、歪の形をした指輪があった。指輪のほかに二次元コードが書いてある紙も入っていて、心臓を握られたような感覚に陥って苦しくなった。
「私、宛なんですか」
「あなたの名前が書いてあったの、渡すべきか悩んだわ。でも、あなたに向けたものなら渡すべきだと思って」
その箱を閉じて頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
ねえ、陣平。何を思っていたの、感情が顔に出やすいあなただったのに、研二が死んでからあなたは感情を隠すのが上手くなった。何を考えているのかわからない、だからどうして指輪なんて残したの、教えてよ。震える手を自分の視界から隠すようにして彼の両親と伊達さんと別れた。
指輪を家に持ち帰って左手の薬指につけるとその指に当てはまった。ああ、どうしてこんなものを持っていたのだろうか。意味くらいは分かる、だけれども理解できなかった。彼は、私とどうなりたかったのだろうか。お昼休憩のときに同僚が私に話をしていた。
「クリスマス、どうするの?」
「一人だよ」
「じゃあ、私の家に来る? ちょうど私も一人だし」
同僚は私の彼氏が死んだことを知っていて、気にかけてくれている。こんなに気にかけてくれているなんてありがたいと思いながら同時に苦しくなった。そして他の同僚がこんな話をしていたのを耳にした。
「エンコードリングって知ってる?」
エンコードリング、その言葉を聞いたことがあった。確か研二がそんな言葉を言っていた。
「その人の声の波長で指輪を作るんだって、だから形が歪なの」
彼が残した指輪の形は歪だった、そして何故か箱には二次元コードが入った紙があった。パズルのピースが当てはまっていくように頭の中で音が鳴る。
「ロマンティックだよね、婚約指輪にしてほしいな」
「ねぇ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
目の前の同僚が私を心配する。頭の中のパズルはあと一ピースだけとなった。彼は、どうして。
仕事を終わらせて駆け足で家に帰る。確認しなくてはならない、もらった箱をどこにしまったかを思い出して机の引き出しを開ける。そこにはあの時のまま箱が存在してその箱を開けて二次元コードが書いてある紙を持って携帯で読み込む。するとサイトが開いて音声再生ボタンがあった。彼は、どんな言葉を私に残したのか。手が震える、それでも聞きたいという気持ちが強くて、震える手をどうにかしてそのボタンを押した。携帯から聞こえてきたのは、たったの一言だった。彼の声を久しぶりに聞いた。彼はこんな声だった、それと同時にどうして、どうして彼は私にこんな言葉を残したのか。
「なんで、どうして、そんな言葉を、指輪に込めたの……!」
泣けなかったはずだった、だけれども今どうして目から涙が流れているのか。涙は止まらなくて視界は滲んで彼の想いを知るには遅すぎた。ねえ陣平、私はあなたのことが好きなの、愛しているの。どうしてそんな言葉を指輪に込めたの。記憶が鮮明によみがえる、初めて会ったとき、好きだと気付いたとき、告白されたとき、照れくさそうに手を繋いでくれたとき、すべてが鮮明によみがえる。すべてが鮮明に思い出せる。陣平、好き、好きだよ。私も、あなたのことを――。
「……幸せになれるといいな」
クリスマス当日、自殺したと思われる彼女の遺体には歪な形をした指輪が左手の薬指に付けられていた。この人を伊達は知っている。十一月七日に死んだ同期、松田陣平の彼女だ。泣いた跡が顔にはっきりと残っていた。伊達はどうすればいいかわからなかった、彼女は松田の葬式の後まるで生きているように見えなかった。死にながら生き続けているように見えた。後輩の佐藤は憤りを抱えていてどうすればいいかもわからなかった。だけれども死んだ後の世界があるのならば彼らが幸せになれることを祈るしかない。そう思うことしか伊達にはできなかった。
長い夢を見ていたような感覚だった、幼馴染が死に、彼氏が死んで、その後を追うように私も自殺をした。目を覚ますと涙が流れていた。どうして、こんなはっきりした夢を見たのか。わからなかった。まるで現実のように感じた、否あれは現実だ。ではどうして、今私はいるのか。記憶をよみがえらせる。今は高校生だ、あれは現実だとしたら、研二は、陣平は。扉が叩かれる音がしてそちらを見ると扉が開かれた。そこには幼馴染の研二がいた。
「何してんの、遅れるよ」
「けん、じ……?」
生きている、ああ彼は生きている。
「まるで幽霊を見たような顔してるけど、なんかあった?」
「ねぇ、研二。死なないで」
「いや、不吉なこと言うなよ」
人は何れ死ぬ、しかし私は研二と陣平には寿命まで生きていてほしい。そこに私がいなくてもいい。そう思って私は身を亡ぼす覚悟を持って、彼らを救おうと思う。
研二と陣平が死なないために、私はどうすべきかを考えた。警察官の夢を諦めさせるわけにはいかなかった。だって小さなころからの彼らの夢だから。私は邪魔をしたくない。まずは研二を助けるべくどう動けばいい。そう考えていた。放課後、自分の教室で自分の席に座っていた。どうすればいい、どうしたら研二は死なないで済む。研二は防護服を着ないで爆発物を処理していたと聞いた。ならば、研二に防護服を着させればいい。そして陣平、多分研二が死ななくても陣平は犯人を捜すと思う。どうしたら、陣平は死ななくてもいいのか。どう頑張っても陣平を救う手段が思いつかない。どうすればいい、どうしたらいい。そう考えていると目の前に手があった。誰だろうと思って見るとそこには陣平がいた。
「何してんだ」
「じん、ぺい」
陣平は私を見る。その表情はまるで、あの時の、研二が死んだときの、感情を隠しきったときの顔で。背筋に何か冷たいものが走った。黄昏時、トワイライト、サンセット、逢魔が時、目の前にいる陣平は、本当の陣平?
「今度のデート、どこに行きたい」
「でー、と?」
「デート」
その言葉に目を丸くした。そういえば陣平とデートすることになっていた。これが、初めてのデートである。そうだ、そうだった。
「行きたいとこ、考えておけよ」
そう言って陣平は私の荷物を持ってくれた。手を差し出されてその手を無意識で掴む。立ち上がって陣平と指と指を絡ませて恋人つなぎになる。
「帰るぞ、萩原がうるさい」
「うん」
陣平は私を見て笑った。その顔を見るのはどうしてか久々であるかのように感じた。その顔を見て、私は陣平を好きになったんだ。その陣平を救いたい、助けたいと思うのは当たり前だった。未来を変える力なんて私にはないのかもしれない、でも研二を、陣平を救いたい。私はどうなってもいい、そう思って陣平の手を握った。
初めてのデートは映画館だった。見たい映画が同じなことから一緒に行くことになった。陣平が合わせてくれたのかもしれないが、それでも嬉しくて仕方がなかった。上映時間の一時間前に映画館のあるところで待ち合わせして待ち合わせの時間より少し早く陣平を待っていると陣平は時間通り来た。
「わりぃ、待たせたか?」
「ううん、待ってない」
そう言って笑うと陣平は少し気まずそうにしたが気にしなくてもいいと思うのだ。
「楽しみだったから少し早く来ただけ」
そう言うと陣平はぶっきらぼうにそうかと言って私の手を掴んだ。
「早く行くぞ」
「うん」
私の手を引っ張るようにして映画館へ向かった。
映画を見てご飯を一緒に食べてぶらりとウィンドウショッピングをしていると雑貨屋さんで可愛いイヤリングを見つけた。それを落とさないようにして持つと光に反射してチャームの部分の石の色が変わった。可愛いなと思いながら値段を見ると少々お高めで諦めてもとにあった位置に戻すと横で陣平の声が聞こえた。
「買わねえの?」
「うん、ちょっと高いと思ったし」
そう言うと陣平は私が持っていたイヤリングを手にとってそのままレジに向かった。どういうことだろうと思って陣平の後ろをついていくと陣平はそれを買っていた。私は驚いて陣平を見ると陣平は私を見て笑った。
「記念にもらっとけ」
「で、でも」
「いいから」
そう言って店員さんから受け取ったイヤリングが入った紙袋を私に渡した。いいのかな、そう思って陣平を見ると陣平はそのまま手を繋いで違うお店屋さんへと向かった。
「今日はありがと」
わかれる際に陣平にそう言う。今日は楽しかった、映画も食事もウィンドウショッピングも。笑うと陣平はどこか周囲を気にしていた。どうかしたのだろうか、そう思っていると陣平は私の手を握った。
「なぁ」
「なに、かな」
陣平は私の名前を呼んで私の髪を耳にかけた。
「キス、していいか?」
その言葉に思わず顔を赤くする。陣平はただ私を見る。
「陣平が、したいなら」
そう言うと陣平は距離を縮めて顔を近づける。目を閉じると唇にかさついた柔らかいものが当たった。キス、したんだ。そう思って離れていくのを感じて目をうっすら開けると陣平の顔が近くにあった。
「次のデートのとき、イヤリングつけてこいよ」
「……うん」
「じゃあな」
そう言って陣平と別れた。陣平とキスをした、それだけで私の心は舞い上がりそうで、それと同時に陣平を救いたい気持ちが強くなっていった。絶対に助けたい、そう思った。
それから数年後、十一月七日、萩原研二は死ななかった。
説得をした結果研二は防護服を着て爆発物を処理した。その結果爆発には巻き込まれたが命に別状はなかった。指だっていつものように思い通り動かせる。ただ、陣平は犯人が許せないようだった。
「お前は、犯人が憎くないのか!?」
陣平にそう言われた、ある些細なきっかけで喧嘩をした。その結果そう言われた。憎い、そんな感情じゃない。憎悪、そんな名前に近いほどで、私の感情は色を付けるとしたら黒に近い暗い色だろう。私は今でもその犯人を許せない。でも私は警察じゃない、裁くのは私ではないことくらいわかっている。
「憎くないわけないでしょ、でも私には犯人を裁く権利なんて持っていない」
唇が震えて言葉が震える、それでも私の意思は震えてなんていない。陣平の目を見て私は唇を動かす。
「私が出来るのは、研二と陣平が生きてくれることを祈ることしかできない」
そう言うと、陣平は唇をかんで黙ってしまった。私は無力だ、わかっている。こんなことしかできない自分に腹が立つ。手の平に爪が食い込んで痛い。それでもあのときの心の痛みほどではない。陣平はそんな私を見て部屋から出て行った。壁によりかかって床に座り込む。喧嘩なんてしたいものではない、それでも研二が、陣平が生きていてくれればいい。私はそれだけでいい。他に何も望んではいない。視界が滲んでいき自分が泣いているということがわかって嗚咽を漏らしながら泣いてしまった。どうか、陣平が生きてくれますように。そう祈ることしかできない自分を呪った。
それから四年が経過した、陣平とは連絡をしていない。自然消滅、なのかなと思いながら携帯の画面には陣平の連絡先が出ている。消す勇気はなかった、今でも好きだから。携帯を操作して画面を変えてカレンダーを見る、そういえば今日が十一月六日。陣平が死ぬまであと一日、私には何が出来るのだろうか。ぼんやりとそう考えながら一人公園でベンチに座っていると横に誰かが座った。誰だろうと思って見るとそこには研二がいた。
「久しぶり、元気だった?」
陣平と同じく連絡をしていなかった研二は私を見て笑った。
「何その顔、泣きそうじゃん」
研二はいつものように困ったように笑って私を見る。研二に連絡しようとしていつも手を止めてしまっていた。理由はわかっている、陣平のことだった。研二はそんな私を咎めようとせずにただ笑っていた。
「なぁ、久しぶりに話そうぜ」
そう言って研二は私の手を掴んで立ち上げた。小さい頃の記憶がよみがえる。いつも研二は私の手を引っ張ってくれた。そんな研二が好きだった。初恋の相手だった。それはいつしか恋人より家族の方が近いと言ってもいい存在になっていた。連れていかれた先は公園の近くのカフェで珈琲を二つ頼んで研二は私を見ていた。
「なぁ、ちゃんと食べているか」
「食べてる、よ」
「そうかぁ? もうちょっと食べろよ」
そう言って私が好きなケーキを追加注文して、研二はいつものように話をしてくれた。陣平のことを除いているあたり私と陣平が喧嘩をしていると思って触れないのだろう。そこが、優しくて狡かった。ふと会話が止まって、外に目を向けるとそこには陣平と、一回目の人生で陣平のことを想っていた女性が仲睦まじく歩いていた。
「あの人、松田の教育係だから。心配しなくてもいいよ」
研二がそう言うけれども、私はどこか心が一つずつ壊れていく気がした。完成したパズルが壊されるように私の心は壊れていきそうだった。
その後無理矢理笑って話を続けた、研二にはバレバレだろう。わかっている、だけれども笑わなきゃ駄目なんだ。心が壊れそうで、痛かった。研二が、陣平が生きてくれたらそれでいいはずだったのに、何時から私は欲張りになったのだろうか。研二と先程あった公園まで一緒に歩く。研二の話を聞いていたはずなのに、どこか私は上の空だった。公園には子どもがいて近くには交通量が多い大通りがある。そこで別れようとした、すると子どもがボールを追いかけて大通りに出た。嫌な予感がする、そう思ってその子どもを追いかけるとトラックが子どもの目の前まで迫っていて私は子どもを抱え込むようにして抱きしめてそれから多分トラックに衝突した。その後何度も頭や身体をぶつけた。研二が私の名前を大きな声で呼ぶ、ずきずきと頭が痛む中考えたのは子どもの無事、腕の中を確認すると子どもは怪我がなかった。それに安堵して頭の痛みが強くなり意識を失った。
小さい頃の私が目の前にいた、あの頃は泣き虫で人見知りが激しくて研二に手を引っ張られなければずっと一人でいた。その私が今目の前にいた。
「もう、がんばったよ。いいんじゃないの」
「なに、を?」
「わたしはがんばってたよ、だからもういいとおもうよ」
そう、なのかな。私は頑張ったのかな。もう、いいのかな。
「だから、わすれてもいいとおもうの、――のことを」
目を覚ます、まるで生きていたように感じる。誰かが私の手を握っている、誰だろうと思ってそちらを見るとそこには研二がいた。研二は私が目を覚ましたことを見てナースコールを押した。私は生きていたのか、ぼんやりとそう考えて研二を見ると研二の手は震えていて涙をいまにも流しそうだった。
「けん、じ?」
「馬鹿野郎! 俺が、どれだけ心配したか!」
「ごめん」
「松田だって、お前のことを!」
まつだ、まつだって。誰かが走ってくる足音が聞こえる。そしてその足音は部屋の前で止まって扉を開く。そこには荒く息をするくせっ毛の黒い礼服のようなスーツを着た男の人が、私を見て私の名前を呼んだ。
「よかった……!」
その人に、私は疑問を投げかけた。
「だれ、ですか」
私はその人のまるで絶望に落とされたような顔を忘れられないだろう。どうして、そんな顔をするのか、私にはまったくわからなかった。
あの日かばった子どもの親に謝罪と感謝をされた、子どもは元気なようでよかったと安心して笑った。退院して実家に帰ることになった。両親は心配をしてくれていた、研二も毎日お見舞いに来てくれている。ただ目を覚ましてから見た知らない男性はそれ以降来ていない。研二は彼が私の彼氏だと言っていたがどうして、彼氏を忘れたのだろうか。思い出そうとしても思い出せない。どうして、彼のことを思うと頭が痛いのだろうか。よくわからない、わからないことばかりだ。部屋においてあるいくつかの雑貨やアクセサリーにも思い当たるものではないものばかり、どうして私は彼のことを忘れたのだろうか。考えたくない、でも考えなくてはいけない。大切なら、どうして私は忘れたのだろうか。今日から実家を出て自分の住んでいるアパートに戻ることにした。借りている部屋の鍵を開けて静かな部屋で自分の部屋の間取りを確認する。玄関の靴棚の上に置いてあった写真立てを持って寝室まで行く。写真を見るとそこには研二と私と、彼氏である松田さんが写っていた。三人とも幸せそうに笑っていた。どうして伏せてあったのかはわからない。携帯の待ち受けは初期設定のままで画像フォルダには仕事用に残された画像ばかり。メールにもチャットアプリにも見慣れた人の名前はあるのに、彼氏である松田さんは遡らなければ見付からない。もしかして別れる直前だったのだろうか。そんなことを考えていると部屋のチャイムが鳴った。誰だろうと思ってドアスコープを覗くと研二と松田さんがいた。鍵を開けて彼らを中に入れる。
「どうかした?」
「いんや、アパートに戻ったって聞いたから。心配してきただけ」
そう言って笑った研二の横で仏頂面の松田さんがいて私は何と声をかければいいかわからなかった。
「これからご飯にでも行かない?」
「いいの?」
「いいのいいの、ほら行こ」
「待って、準備するから」
部屋の奥に入って鞄とコートの準備をする。携帯と財布、あと定期も。そう思って準備をしていると机の引き出しに鍵がかかっている、どういうことだろう。そう思って鍵を探そうと思ったが研二と松田さんを待たせていることを思い出して帰ってから探そう、そう決めて扉を閉めた。
研二と松田さんに連れられてきたのはおしゃれな居酒屋だった。個室で他人の喋り声が聞こえるがまぁあまり耳障りではないからいいかなと思いながら研二と松田さんが並んで目の前に座った。
「今日はお酒飲む?」
「遠慮するね」
そう答えてメニュー表のソフトドリンクの方に目を向ける。何を頼むか考えて、クランベリージュースを頼むことにした。ドリンクと食べ物をいくつか注文して店員が去っていった後、研二が口を開いた。
「適当に注文したけど良かった?」
「大丈夫」
研二はほっとして笑った。私は黙ったままの松田さんにちらりと目を向けるとぱちりと目が合ってしまい思わず逸らす。恋人同士であったはずなのに、松田さんは何も喋らない、視線から訴えかけてくるのはどうしてか後悔だった。私たちに何があったのか、聞きたくても聞けない。恋人ではあったが別れる寸前だったとか、そんなことを考えてしまう。研二はそんな私たちを気遣ってか間に入るように喋っている。研二の話に相槌を打ちながら頼んだクランベリージュースを飲む。
「あ、ちょっと電話出てくる」
研二の携帯が震えて研二が電話に出るためいったん部屋から出て行った。残ったのは私と松田さんだけ。これは気まずい、どうすればいいかわからずだたもう一度クランベリージュースを口にした。松田さんはこちらを見ている、どうすればいいかわからない。
「なぁ」
「な、なんですか」
いきなりしゃべりかけられて声が裏返りそうだったがそれが出ないことを褒めてほしい。松田さんは麦酒を頼んでいてそれを飲んでいる。
「元気、だったか」
その言葉に違和感を感じる、まるで今まで会っていなかったような言葉に私は何と返事をすればいいのだろうか。
「元気、でしたよ」
ようやく見つけた答えがこれだった。私には彼に関しての記憶がなくてまるでそれだけ欠けているような記憶はどうすれば完成された綺麗な形になるのだろうか。松田さんはただ私を見て、そうかと呟いた。それ以降喋らなくて気まずい雰囲気の中研二が帰ってきて私と松田さんはそれ以降喋らなかった。
研二と松田さんと別れた後一人でアパートに帰り寝室でぼんやりと松田さんのことを考えた。色々と考えると別れる寸前で私が記憶を失って松田さんはそんな私を見て何も言わないのか。どう考えても別れる寸前、自然消滅になる手前だったのだろうか。よくわからない、頭が痛い、まるで思い出すなと言っているように感じる。どうして、私は松田さんのことを忘れたのか。
仕事に復帰して休憩中に同僚と外で昼食を食べようという話になった。同僚に連れられてカフェでご飯を食べていると窓から外を見るとそこには女性と松田さんが歩いていた。なんだ、別れる理由は松田さんの浮気だったのか。だって、女性から松田さんに向けられている視線の中に熱が混ざっていた。どうしてか胸が痛くて苦しかった。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
そう言って笑って手を進めた。後で携帯から松田さんの連絡先を消そう、そう思って。
アパートに帰って携帯を操作する前に気になったことを思い出した。そういえば、三人で食べる前に引き出しが開かないことがあった。鍵をどこにやったのか、考えて手帳を開くとそこに鍵があった。その鍵を使って引き出しを開けるとそこには一冊の日記帳があった。それを見ると頭が痛くなった、松田さんのことを思い出すときと同じ痛みだ。此処に何を書いていたのか、私は日記帳に手を伸ばす。表紙を開くと、そこには高校生のときから記されていた私の日記だった。
日記を読み終わるとどうしてか泣いていた、私はどうしてこんなことを忘れていたの。どうして、どうして。全て思い出した頃にはもう遅かった。陣平は、もう私を見ていない。他の女性と付き合うのだろう。私は、どうすればよかったのか。こんなことなら、もういっそのことこのまま。涙が止まらなくてどうしたらいいかわからない、研二も陣平も生きている、それだけを望んだのに。いつのまにか欲張りになっていた。忘れたままでよかったのかもしれない、それでも私は思い出してしまった。携帯を操作して陣平に電話をかける、お願い、出て。電話は留守電サービスにつながった。何処に行けば陣平に会えるのかを考えて携帯と財布と鍵を持ってコートを羽織って外に飛び出した。ねえ、陣平。今どこにいるの。
風が肌に突き刺さるように冷たい、息が白くて手がかじかむ。季節は冬であることを私に知らせていた。大きなクリスマスツリーの前で息を整えてツリーを見上げる。そういえば、このツリーを陣平と一緒に見たかった。イルミネーションが施されたクリスマスツリーを見て携帯が震えているのを感じて急いで携帯の画面を見るとそこには着信と松田陣平と記されていた。震える手をどうにかして携帯を操作して電話に出る。
「どうかしたか」
「思い出した……!」
「はっ……?」
「全部、全部思い出したの!」
手が震える、寒さかそれとも恐怖からか。それでも陣平に伝えなくてはならない。
「今どこだ」
「どこって」
目の前にあるクリスマスツリーが点灯した、歓声が湧き上がってそれを見た。声が出なかった、陣平と、一緒に見たいと思っていた、クリスマスツリー。魔法をかけたようなイルミネーション。いつのまにか電話は切られていて私はクリスマスツリーに目を奪われていた。すると腕を引っ張られてそちらを見ると息が切れて白い息を吐く陣平がいた。私の名前を呼ぶ陣平に涙が目に浮かぶ。陣平は私の腕を掴んでそのまま歩き出した。引きずられるようにして歩いて着いた先には陣平が借りているアパートだった。鍵を開けて陣平は私を部屋の中に入れて扉を閉めて私を自分の腕の中に入れた。その温かさに思わず涙が目に浮かぶ。
「ごめん、なさい」
「……なんで、謝るんだよ」
「だって、陣平のこと忘れたから」
陣平は私を強く抱きしめた、肩口に顔をうずめていて陣平の背中に腕をまわすと陣平の身体は震えていた。
「俺も悪かった、お前のやさしさに付け込んだ、お前だって傷付いてたのに、知らないふりをした。忘れられたときは罰だって思った、これが俺への罰だ。そう思うほど苦しかった」
「……ごめん」
「それでも、思い出してくれてありがとう」
陣平は顔をあげて私を見る、綺麗な青い色をした瞳は涙を浮かべていて思わず笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
「ごめん、でも嬉しい」
そう言うと陣平も笑った。そしてお互い目を合わせる。
「なぁ」
「なにかな」
「キス、していいか」
その言葉に高校時代を思い出す、そういえば陣平はいつも確認してからキスをしてくれた。
「いいよ、私もしたい」
そう言って涙を指で拭って笑うと陣平の顔が近付いてくるのを感じて目を閉じて陣平とキスをした。
「そういえば今日クリスマスだよ」
「そういえばそうだな」
その後一緒にイルミネーションを見るため外に出ると空から白いものが降っていた。何だろうと思って上を見ると雪が降っていた。
「雪だ」
「通りで寒いわけだ」
「ホワイトクリスマスだね」
そう言うと陣平はさむっと呟いて私の手を繋いだ。陣平の手は冷たくて思わず笑ってしまった。
「また笑ったな」
「冷たいし」
「お前の手も冷たいだろ」
「まぁ、それは仕方ないこととして」
「なんでだよ」
そう言って笑った陣平を見て私も笑った。
「来年もまた見ようね」
「そうだな」
陣平の手を握って私はもうこの手を離したくないと神様に祈った。