絡みとられたいとの先
この世界には生物学的性別とジェンダーのほかにもう一つ性別がある。それがオメガバースだ。それはα,β,Ωと三つに分けられている。αはカリスマ性やリーダースキルがあり所謂人間という種の頂点に分類される。会社の社長など社会のトップの人間はαが多いと聞いていたりする。人口は少ない方だったり。βは普通の人間である。このオメガバースには関係がないといっても過言ではない。多くの人がβなのでβだからといって落胆しない方がいいと思う。普通の人に恋をするのならβであることがいい。人口はβが多く占めているので。そしてΩ、αより少ない人口で性差別が一番ある。何故なら三ヶ月に一度発情期があり、その時期なら男でも女でも妊娠ができる。Ωは主に繁栄が仕事と思われているところがあるため社会的地位が低いのだ。そしてαとΩは番というつながりを作ることができる。そのつながりを作るためにはαはΩの項を噛まなくてはならない。天文学的な数値であるがαとΩで運命の番の相手がいるらしい。会えるかどうかはわからない、でもこの世界では少女漫画や恋愛ドラマや映画で運命の番をテーマにしたのがあるくらい憧れる運命なのだ。そんな運命などくそくらえ、そう言う私はΩで生物学的性別とジェンダーが女性である、社会的地位は低いのだ。そんな安っぽい恋愛ドラマや映画、漫画など見ると反吐が出る。Ωだとわかったのは中学三年の夏だった。その日は猛暑で酷く蝉が耳に響くほど五月蝿くて汗が額に滲み出ていたことを覚えている。父親がαで母親がΩだったから私もどちらかだと思っていた。結果はΩで父親と母親は運命の相手を見つけるのよ、そう言った。しかし私は知っていた、父親と母親は運命の相手と結婚したのではないと。父親は浮気相手がいた、母親にもいた。それくらいわかっていた、だから父親と母親は運命の相手を見つけろと私に言ったのだ。運命なんてそんなもの、あるはずがない。ならどうして私が産まれたのか。所詮政略結婚の果てに産まれた子どもなど可愛いわけもなくほったらかしに育てられた私は結果の紙をぐしゃりと握りつぶした。目から零れ落ちたのは涙なんかじゃなかった。そんな私が運命の番を見つけるまで時間はかからなかった。運命の番など会えるわけがない、そう思っていた。友達と遊びに来たショッピングモールで爆弾を見つけるまでは。
高校一年の夏休みの時だった、新しくできたショッピングモールに友達と遊びに行って爆弾を見つけた。いちはやく警察に通報して機動隊の爆発物処理班が来たと思ったら、ある一人に目が奪われた。ふわりと心地よい匂いがして頭がぼんやりとしてくる。何も考えたくない、どうしてだろう。ふわふわした感覚に襲われて倒れそうになるのを誰かが受け止めた。すると心地よい匂いが強くなってその匂いに包まれるように意識を失った。気が付くと白い天井が視界に入った。起きるとどうやら病院のようでどうしてここにいるのかわからなかった。とりあえずナースコールを押そう。すると扉が開いて誰だろうと思ったら目を奪われた男だった。
「起きたのか」
「えっ、あの」
「俺はお前の運命の番だ」
その言葉に直接鈍器で頭を殴られたような感覚になった。信じられない、だって、運命の番は、天文学的な数値で会えない人の方が多いと聞いているのに。どうして、どうして。
「いらない」
ぽつりと言葉が漏れた。はっきり言わなければ私の意思は伝わらない、高校生でもそれくらいわかっていた。だから彼の目を見てこう伝えた。
「私は運命の番なんていらない」
初めて親に殴られた、しかも父親に。母親は止めもしなくてただ見ていた。運命の番なんていらないという発言を父親に聞かれた私は運命の番の前で病室に入ってきた父親にそのまま殴られた。
「お前はΩだ、しかも女。意味くらいわかるだろ」
つまり父親は私に子供を産むための道具になれと言っているのだ。父親はこんな人だった、それくらい知っている。母親はこんな父親と無理矢理結婚させられて私を産んだのだから。意味がわからない、女だからなんだ、Ωだからなんだ。頭の中で言葉がぐるぐるとまわる。それでも言葉に出来なかったのは殴られるという恐怖を父親に与えられたから。人をどうやって動かすか、それを父親は知っている。感情をもって動かすということを父親は知っているのだ。だから私に恐怖を植え付けた、簡単なこと。そのことを私は父親から聞いていた。それでも、手が震えても、声が震えても、身体が震えていても、私は自分の意思を伝えなければならない。
「それでも、いらない」
父親は手のひらを強く握りしめた。殴られる、そう思って恐怖で目を閉じた。しかし殴られる衝動は来なかった。恐る恐る目を開けるとずっといた私の運命の番が父親の手を抑えていた。
「娘さんの意思ぐらいわかってもらえませんかね」
「だが!」
「これでも警察なんで、これ以上は見逃せないんですけど」
父親は舌打ちをして部屋から出ていった。母親は父親のあとを追うように出ていく。こちらなど見ないで。わかっている、これは身勝手な行為だってことぐらい。普通なら運命の番を見つけたのならその人と番うのがいいのだろうけれども、私は嫌だった。
「ありがとうございます」
「これからどうするんだ」
たしかに、これからどうするのだろうか。親は頼れないだろう、大学に進学することだって出来ない。そしたら働くしかない、誰かの番になるのが幸せという昔言っていた母親の言葉はこの日本の社会において当たり前のことだった。Ωで女、日本での社会的地位は限りなく低い。それでも嫌だった、そんなの、嫌になる。
「どうしようもないですよ。あんな啖呵切っておいて、結局は誰かと番になるのが幸せってことぐらいわかっています」
それが幸せなんだろう、わかっていてもそれを選べない。でも、選ぶしかないことぐらいわかっている。自嘲するように投げ捨てた言葉に運命の番はこちらを見ていた。
「ごめんなさい、見苦しいところを見せてしまって。自分で、どうにかします」
頭を下げて無理矢理に笑ってみせる。
「子どもがどうこう出来るわけがないだろ」
彼の言葉は至極当然だった。高校生の私がどうこう出来るわけがない。誰かに頼らなければならない、でも目の前の人を否定してしまった以上私は誰にも頼ることが出来ない。どうしろと言いたいのだろうか。彼の黒い瞳を見た。そこにはどうしようもない顔をした私が映っていた。
「どうしろと」
「俺の家に来い」
彼は、今なんて言った?
その後診察を受けた。先生に発情抑制剤を処方されることになった。一応念のために、そう言われて受け取った。優しい女の先生だった、αの先生で番がいるらしい。
「運命の番に会えるのは奇跡だけれども、あなたが選ばなければ意味はないわ。でもよかったわね」
そう言ってふわりと笑った。なにがよかったのだろうか、その疑問を持ちながら後ろで一緒に聞いてくれた運命の番は私の荷物を持っていてくれた。そういえば名前を聞いていなかったな。そう思いながら彼の後ろを歩く。彼は私の名前を知っているのだろうか。そんな疑問を新たに持ちながら手当され、ガーゼで覆われた頬を無意識にさわる。どうして、彼は私を家に連れていくのか。わからなかった。ぼんやりと彼の背中を見る。そういえば仕事はどうしたのだろうか。彼に対しての疑問が私の中で多くなっていく。どうして、彼のことを考える自分がいるのかわからないがそれでも不思議だった。病院から出て彼がタクシーを捕まえる。そして捕まえたタクシーに私を先に乗り込ませて続くように彼も乗る。
「家はどこだ」
住所をタクシーの運転手に告げて無言のままタクシーに揺られて家に着く。お金を彼は払ってそのままタクシーは何処かに行ってしまった。お金、払ってもらった。何円かも私にわからないようにして払ったのだ。
「タクシー代、払います」
「いい、気にするな」
「でも」
「子どもは大人に甘えればいいんだよ」
そう言った彼は私の頭を軽く撫でた。もう高校生なのに、でも高校生は彼にとったら子どもなのだろう。
「明日、迎えに来るから荷物準備しておけ」
「わかりました」
自分の家にいても、一人でいるだけだから。親が来ることはない。彼らは他の家に住んでいるのだから。だから了承した。
「なぁ、名前聞いてもいいか」
鍵を開けて玄関の扉を開けるときにそう言われた。私の名前、知っているのではなかったのだろうか。彼に目線を向けると彼はくしゃりと笑った。自分の名前を言うと、彼は名乗った。
「松田陣平だ、よろしくな」
事情聴取は友達が受けたようで私は回避されたらしい。よくわからないが友達は声でもわかるぐらいにぐったりとしていた。謝罪したら彼女はまた遊びに行こうと言ってくれて嬉しかった。荷物の整理しなきゃ、そう思ってキャリーケースの中に荷物を詰め込んだ。すると玄関の鍵が開く音がした。父親と母親、私しか持っていない鍵だから誰だろうと思って部屋の扉を開けるとそこには母親いて、目が合った。
「どうかした?」
「松田さんがあなたのこと引き取るって連絡が来たわ」
まるで業務連絡のようだな、そう思ってしまう。いつの間に連絡先を交換したのだろうか。母親は私の顔を見に来ただけの様だ。そういえば、この家どうなるのだろうか。
「荷物、いらないのは捨てなさい。この家売るから」
「そう」
いい思い出も悪い思い出もなかったがこの家は売られるのか、私がいなければこの家があっても意味はないだろう。帰ってくる場所もなくなったのか私は。それだけ言って母親は出ていくのだろうな、そう思った。しかし母親はまだいた。
「私はあなたが羨ましいわ」
「……なんで」
「結婚する前に運命の番に出会えたのだから」
なら離婚してそのαと付き合えばいいのに。そう思ったが口にはしなかった。小さい頃親からもらったテディベアをゴミ袋にいれた。
次の日、宣言通り松田さんが家まで車で迎えに来た。荷物が多いと思ったのだろうか、キャリーケース一個と学生鞄しか持っていない私に彼は驚いていた。
「荷物はこれだけでいいのか」
「後は捨てました」
「……そうか」
ものに思い入れがある性格でもないので捨てるものは捨てた。それだけだ。松田さんがキャリーケースを車に積んでいるときに今まで住んでいた家を見た。思い出もなにもない。ただの一人で住んでいた家だ。そう思って踵を返して車に乗り込んだ。もうこの家に戻ってくることはない。未練などない、そう思っている。
「行くぞ」
「わかりました」
車内は煙草の匂いがした、そのなかからほんのりと心地よい匂いがする。運命の番は本当なんだなと思った。一応発情抑制剤をもらっているからその薬を手で握りしめていた。これから必要となる、そう先生に言われたから。単なる気休めでもよかった、これからこの人と暮らす、何れこの人と番になるんだろう。そうわかっていた、それまでの期間気持ちを整理させなければならない。彼と喋らずにただ景色を見ていた。
彼が住んでいるところは防犯上がしっかりしたアパートだった。たしか警察官だった、気がする。部屋に案内されて荷物を片隅に置いてもらった。
「これからの話をしたい」
松田さんはそう切り出した。松田さんがソファに座って私はテーブルをはさんで向かい側に座る。正座の方がいいのだろうか。一応正座で座ると足を崩すよう言われた。正座を崩すと松田さんは喋りだした。
「これからお前が安定した職業に就くまで俺と一緒に暮らしてもらう。お前の親からは番になってほしいとは言われているがお前の意思を俺は尊重したい」
「なんで」
「番う相手の意思を尊重するのは当たり前だろ。結婚にせよ番うにせよお互いの意思は大事だ」
確かにそうであるべきだ。私のまわりが可笑しかったのだろうかと思うほど彼は真面目であった。私は自嘲するように言った。
「番わなきゃいけないと思ってました」
「お前がそう望むなら番うつもりだ、でも違うだろ。俺はお前に出来る限り支えるつもりだ」
「松田さんは、どうしたいんですか」
そう言うと松田さんは私の目を見た。蜂蜜のようにどろりとしたわからない感情が映し出されている。その感情の名前を私は知らない。
「本能としては番いたいに決まってるだろ」
「番えばいいじゃないですか」
「話を聞いていたか、俺は相手の意思を尊重したい。それにお前のことを俺は何一つ知らない」
「だから、一緒に暮らすことに?」
「運命の番を無防備にするなんて俺には無理だったからな。ついでにお前のことを知れたら良いと思っている」
意味がわからなかった、運命の番は結ばれるのが当たり前なのではないのか。なのに彼は私の意思を尊重すると言い出した。どうして、なんで。考えてもわからない。彼の言葉を鵜呑みするつもりなんてない。でも、鵜呑みしなきゃこの状況は納得できなかった。時計の秒針がよく響く部屋で私は思考する。有難い話、でもなにか裏がないかと考えてしまう。外していた視線を彼に合わせると彼はこちらを見ていた。信用、しても良いのかな。
「松田さんは、私のこと、どう思ってるんですか」
その言葉に松田さんは眼を丸くする。
「わからない、運命の番だから好きになったわけでもない。だけれどもお前のことを知りたい、お前のことを知っていきたい。それだけだ」
その言葉を聞いて信用しよう、そう思った。
「よろしく、お願いします」
「こちらこそ」
こうして私は彼と一緒に暮らすことを始めた。
お金の工面はどうやら親が噛んでいるらしく松田さんに気にするなと言われた。バイトでもしようかと考えていたが学校はバイト禁止だったことを思い出して諦めている。料理やら洗濯、家事全般は一人暮らしみたいなものだったのである程度出来ていたので、松田さんにそのことを任された。あのあと松田さんは自分について話してくれて、私も自分のことを話した。松田陣平、警察官で年齢は二十五歳。警視庁警備部機動隊爆発物処理班に所属しているらしい。その顔で二十五歳、そう思ってしまった。童顔だなぁと思いながら九歳差か、そう思った。恋愛に年齢差なんて関係ないのだろうが彼にとって私は子どもなので恋愛感情をもてるのだろうか。そんなことを考えたが気にしない振りをした。今日も松田さんは帰ってくるらしい、今日はご飯はいらないと言われている。一人でご飯を食べていると鍵が開くと音がした。鍵を開けられるのは松田さんしかいないのでご飯を食べ進めていると知らない声が聞こえてきた。誰だろう、思わず身構えた。
「ねぇ松田、この靴誰の?」
「運命の番」
松田さんの声が聞こえてきた。帰ってきたんだ、知り合いの人も連れてきたのかな。ぼんやりと考えながらご飯を食べ終わらせて台所に食器を持っていく。すると扉が開いた。そちらに目を向けると松田さんと知らない人がいた。
「ただいま」
「おかえりなさい、お風呂沸いてます」
松田さんはいつものように言う、私もいつものように返して食器を洗って、拭いて棚に片付ける。知らない人は目を丸くして驚いていた。
「松田、どういうこと」
「なにが」
「幼妻いるって聞いてないけど!?」
「結婚も番もしてないぞ」
「はぁ!?」
目を疑うかのように松田さんを見る男の人に私はそれが当たり前の反応なのかなと思う。同棲しているから恋人以上だと思われているだろう。しかし私たちはそんな関係ではない。なんと説明すれば良いかわからない私はただ苦笑した。
「えっ、あの話マジ?」
「だから来るなって言っただろ」
どんな話をしたのだろうか、ふわりといつもの煙草の匂いに混ざってお酒の匂いがした。お酒飲んできたのかな、そしたらお風呂じゃなくて水を用意すべきなのかな。
「座ってろ、先に風呂入っても良いぞ」
「わかりました」
「萩原、今日はどうするんだ」
「帰るよ、お邪魔みたいだし」
「おー、帰れ」
はぎわらさんと言うらしい。漢字まではわからないけれども彼は私に笑いかけてそのまま帰っていった。
「お風呂、入らせてもらいますね」
「なぁ」
「なんですか」
松田さんはネクタイを緩ませてこちらに向けて笑った。
「一緒にはいるか?」
思わず身体がかたまった。いっしょに、はいるとは、つまり、お風呂に一緒にということか。狼狽えると松田さんは笑って言葉を続けた。
「冗談だ、入ってこい」
酔っぱらい怖い、そう思ってお風呂にはいることにした。
学校が始まった。痣がなくなったのでガーゼを外した。松田さんはよかったなと笑ってくれたので私もよかったと思っている。多分虐待だのなんだの言われる可能性もあったので学校が始まる前にガーゼを外せてよかった。部活に入ってないので早めに家に帰っている。松田さんはそのことを知っているのでなるべく早めに帰ってくるようにしているらしい。そういえば卵が無くなりそうだったなと思いながら家に帰るとリビングのソファに座っている松田さんがいた。
「おかえり」
初めて言われた言葉にきょとんとしてしまった。
「た、だいま、です」
「どうかしたか?」
「その、初めて、おかえりと言われたので」
初めて、おかえりと言われた。ここが帰る家なんだ、そう思ってしまいそうだった。就職するまで、それまでの期間一緒に暮らすだけの関係なのに。少なからず嬉しいと思ってしまった自分がいた。そんなことを知ってか知らずか松田さんは私の頭を髪型がぐしゃぐしゃになるまで撫でた。
「なんですか!?」
「なんでもない」
「あっ」
学校から家に帰るまでの道で髪が平均より長そうな男の人に出会った。しかも私のことを知っているよう。誰だろうと思いながら横を通り過ぎようとしたら声をかけられた。
「ねぇ、君って松田の運命の番だよね?」
どの松田さんなんだろうか、彼を見ると笑ってこちらを見る。多分、一緒に住んでいる松田さんのことなんだろうと思うのだがどうして私を知っているのだろうか。そんなことを思っていると彼は喋りだした。
「俺松田の親友の萩原っていうんだけれども」
そういえば家に来た人もはぎわらって言ってたな、と思い出す。もしかしてあのはぎわらさん?
「はぎ、わらさん?」
「一回会ったことあるよね?」
頷くとはぎわらさんはほっとしたように笑う。そして私の格好を見た。
「高校生なんだね」
「そうですね」
「ガーゼ、外れてよかったね」
頬を指してそう言ったはぎわらさん、知っているのだろうか。そんなことを思っているとはぎわらさんはこちらを見ている。
「運命の番なのになんで番わないの?」
私と松田さんの関係を知っている人はそう思うのが当たり前だと思っている。これは私の我儘で、松田さんを振り回しているどころか彼に甘えていることぐらいわかっている。それでも、それでも嫌なのだ。一緒に暮らすことによって私は彼のことを知った、だから番うべきではないこともわかった。私なんかに松田さんはもったいない。不器用で優しい人、私なんかを気にしていつも煙草を外で吸ってくれている。彼はヘビースモーカーだとわかっているのに、部屋であまり吸わないようにしてくれている。部屋は別れているがリビングに灰皿はなくなった。気にしなくても良いのに、そんなことを思っている。
「私の我儘なんです」
そう言って無理矢理笑ってみせるとはぎわらさんは私を見る。
「なん、ですか?」
「運命の番だから番わなきゃいけないわけでもないでしょ、気にしなくても良いんじゃないの?」
「はぎわらさん、さっきと言ってること矛盾してますけれども」
「別に運命だからっていって番うのは可笑しいと思うんだよね。松田のお互いの意思を尊重する考えは正しいと思ってるよ。まわりの意見なんか気にしなくても良いと思うんだけど」
そう言ったはぎわらさん、松田さんの親友というの本当らしい。見た目は軟派な人だなぁと思っていたがやはり人は見た目ではないのだなぁと思った。はぎわらさんはこちらの視線に気づいてどうしたのという不思議そうに見ている。
「ありがとう、ございます」
「Ωは番うことだけが幸せじゃないよ、君みたいに仕事に就きたい人だっているしその社会制度だってあるんだから」
そう言って笑ったはぎわらさんに、私はもう一度お礼をいった。
今日は熱っぽい気がする。ぼんやりと思考が鈍る。風邪でもひいたのかと思って部屋で休もうと思ったのに、松田さんのシャツを見て、ほしいと思った。勝手にシャツを借りたら駄目だとわかっているのに身体が勝手に動いた。シャツを手にとって匂いをかいだ。松田さんの煙草と香水かなにかわからないけれども爽やかな匂いがする。あの心地よい匂いはしなかった。今日は松田さんの帰りはいつも通りの時間だと思う。それまでにこの熱をどうにかしないといけない。松田さんの匂いを鼻にするとぞくりと背筋になにかが走る。心地よいのに、足りない。圧倒的ななにかが足りないのだ。枯渇しているような感覚だけれども部屋に戻ろう、そう思ってふらふらする足をどうにかして部屋に入る。ベッドの上に倒れて松田さんのシャツの匂いを嗅ぐ。この身体の熱をどうにかしたいのに、どうにもできない。どうしたらいいのかわからなくて視界が滲んでいく。気が付くと松田さんの名前を呼んでいた。
「まつ、だ、さん」
今すぐに現れるわけでもないのに、松田さんの名前を呼んでいた。どうしたらいいかわからない、どうすればいいか。玄関の扉が開く音がして部屋の扉を見る。すると足音が聞こえてこちらに近付く。松田さん、松田さん、助けて。松田さんのシャツを持って扉に近付くと松田さんは扉をいきなり開けた。私は松田さんを見て心地のよい香りがすることに安堵した。
「ま、つだ、さん」
松田さんは舌打ちをしてリビングに戻ろうとする。その背中に抱きつく。松田さんの香りがする。シャツなんかより心地よい香りがする。今すぐ項を噛まれたい、滅茶苦茶にされたい。ぼんやりとする頭なのにそれだけがはっきりと訴えている。松田さんは私の名前を呼ぶ。それが心地よかった。
「落ち着け、抑制剤を持ってくる」
「や、はなれ、ない、で」
松田さんのそばにいたい、嫌だ離れたくない。涙が目からこぼれ落ちて松田さんの黒いスーツに滲んでいく。頭を横に振って松田さんにくっつく。すると松田さんの心地よい匂いが強くなった。意識はどんどん遠くなって次第に立つことが出来なくなってふらふらしてくる。
「ま、つ、ださ、ん」
最後に滲んだ視界にはいったのは苦しそうな松田さんの顔だった。
目を覚ますとそこはいつもの天井ではなくて、頭はぼんやりとしていた。ここはどこだろうと思ってまわりを確認しようとすると扉が開いた。誰だろうと思ってそちらを見るとあの医者だった。
「気が付いたのね」
安堵したかのように先生は話し出す。どうやら私は初めてヒート、所謂発情期が来たようだった。あの身体の熱はそうだったらしい。今は薬でどうにか抑えているらしい。そうだったのか、そうわかると今までの行動は納得できる。多分松田さんに抱かれたかったのか、そうわかると自分がΩだと自覚させられた。なんだ、そうだったのか。どうあがいても私はΩで誰かと番うことが一番の幸せだ。そうわかるとぼろぼろと涙がこぼれた。親の言ったことは当然で、私は間違っていたのだ。そうわかると私のやっていたことは意味がなかったかのようで悲しくなった。嗚咽を漏らしながら泣くと先生は私の手を握った。その手の温もりは優しかった。
涙が止まった頃に松田さんは病室に入ってきた。松田さんは私を見て何も言わなかった。スーツのジャケットを渡されてそのジャケットを腕の中に入れてその匂いが心地よくて涙腺が緩みそうだった。松田さんは何も言わずただそばにいてくれた。入院はしないのでそのまま松田さんの家に帰ることになる私はそのまま松田さんについていく。途中で人の横を通ると甘い匂いがするという会話が聞こえてきて背筋が凍った。やはり私がΩであることは変わらない。それだけだった。松田さんの車に乗って松田さんを見るとこちらを見ないでいる。どうして、見てくれないのだろうか。何故だか悲しくなって、松田さんのジャケットに顔を埋めた。泣いちゃ駄目なのに、どうしてか涙が止まらない。どうして、どうして。どうして私はΩなんだろうか。
家について部屋にいようと思ったら松田さんにソファに座っていろと言われた。おとなしく座っているといつも使っているマグカップが出された。中身は匂いからするとカフェオレだと思う。それを口にしてその温かさにほっとする。そういえばスーツのジャケット、クリーニングに出さなくてはならない。そんなことを思っていると松田さんは目の前に座った。
「これから、どうしたい」
「これ、から?」
「これから」
松田さんは私に何を求めているのだろうか。わからなくて松田さんの目を見た。松田さんの黒い瞳に戸惑う私が映っていた。
「お前は、これからどうしたい」
私は、これからどうしたいのだろうか。わからなかった、運命の番を否定して、一番の幸せは番われることだとわかって、私はどうしたいのか。進学も就職だって難しい、それでもいいと思ったのに。いざヒートが来たら私は怖くなった。これから、三ヶ月に一度ヒートが起こるのだ。松田さんに甘えるわけにはいかないのに、どうしたらいいのかわからなくなった。視界が滲んでいく、頬に涙が伝う。
「わから、ない」
「そうか」
松田さんはその答えでも私を責めなかった。わからない、わからない。どうすればいいかわからなくて答えが見えなかった。これでは、我儘を言う子どもじゃないか。子どものように泣きじゃくる私に松田さんは何も言わなかった。松田さんと暮らすときにこれからについて話したはずなのに、今はわからなかった。どうしたらいいか、どうすればいいかわからなかった。わからなくて、ただぼろぼろ泣く私に松田さんは何も言わなかった。
「あんたどうするの」
「どうすればいいと思う?」
高校三年生になった、同じΩの友達は進学するらしい。勉強を誰よりも頑張っていた彼女は大学に進むと決めていた。それにたいして私はどうしたらいいのだろうか、わからなかった。勉強は人並みにしていたが進学するにはもっと点数も内申点も必要だった。ヒートが他の人より早く来てしまった私は学校を休んでしまいがちだからどちらともβ並、いやそれ以下だからどうしようもなかった。
「就職するの?」
「今からじゃ、間に合わないのに?」
就職するにはもっと早く準備しなければならなかった。どうしてそれをしなかったといえば、先生に何も言われなかったから。知ったあとにはもう遅かった。先生はどうして教えてくれなかったのか、わからなかった。
「もうあの人と番になるしかないのかな」
「それでいいの?」
「それしか道がないんだよ」
苦笑すると友達は苦い顔をした。Ωだからなんだ、そう言っていた私が番になる道しかないと言うのだから。
「なんで先生は言ってくれなかったのかな」
先生のせいにしても仕方ないのにな。友達はただ歯痒そうだった。私もただ、スカートの裾を掴んだ。
それからどうすべきか悩んだ。就職するには遅すぎる、進学するには点数が足りない。もう道はひとつしかない。わかっている、でも踏ん切りがつかないのだ。松田さんは素敵な人だと思う、不器用で優しい人。そんな人と運命の番なんだから、選べばいいと思う。そう思いながらリビングのソファの上で座りながら松田さんの帰りを待っている。今日は飲み会があるから遅くなる、そう聞いていたのでぼんやりと待っているとがちゃりと鍵が開く音がした。帰ってきたのかな、そう思ってソファの上から降りると松田さんがリビングに入ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
心地良い匂いがする、医者の先生はこの匂いをフェロモンだと教えてくれた。心地良いのは運命の番だから、そう教えてくれた。その匂いの中に気持ち悪い匂いがした。どうしてか心地のよくない匂いで松田さんを見るとどこか不機嫌そうだ。嫌だなぁ、そう思ってしまう自分がいる。松田さんは私のものでもないのに、どうしてかその匂いをつけてほしくなかった。私は松田さんに抱きついて松田さんのシャツに顔を埋めた。松田さんの匂いがする。気持ち悪いのより自分の匂いをつけたい。ぐりぐりと頭を擦り付けるようにする。その気持ち悪い匂いがとれたと思って満足して松田さんから離れると松田さんはぽかんとしていた。そして自分がしたことを私は思い返した。まるでマーキングのようなことをしてしまった。私は恥ずかしくなって部屋に入って扉を閉めた。扉を閉めるときにばたんと大きな音がしたがそれより恥ずかしさが強かった。どうして、あんなことをしてしまったのかわからない。自分のものでもないのに、松田さんにまとわりついていたあの匂いが嫌だった。ベッドにもぐりこんで冷たいシーツに熱い顔を埋めて熱が取れるのを待った。
松田さんにまとわりついていたあの嫌な匂いについてかかりつけとなった医者の先生は教えてくれた、他のΩのフェロモンらしい。嫌なものだと思ってしまったのは松田さんが運命の番だからかもしれない。先生はそう言っていた。私はマーキングみたいなことをしてしまったと言うと先生は目を丸くして笑った。
「あなた、運命の番にそんなことをしたの?」
「……はい」
「そう、良い傾向だわ」
そう言って笑う先生に私は首を傾げた。どうしてそんなことを言うのかわからなかった。ただ先生は嬉しそうだった。病院から松田さんと住んでいる家に帰る道の途中、進学を希望しているΩの友達を見かけた。どこか苦しそうでどうかしたのか、声をかけようかとしていたところ、横を通って行った人が甘い匂いがする、そう言っていた。私はヒートではない、だとしたら、彼女はもしかして。彼女の名前を呼んだ。彼女は私に気付いてぽとりと涙をこぼした。
「もしかして」
「ヒート、みたい」
「薬は」
「もって、ないよ」
私は鞄に入っていた薬と飲み物を渡す。いつヒートが来てもおかしくない身体だったから抑制剤を持っていた。彼女は薬と私を交互に見て薬を口に含んで飲み物を飲んだ。
「ごめん」
「いいよ、今から病院行った方がいいと思う」
「そう、だね」
そう言って先程行った病院に彼女を連れて行った。ほんのりと身体に熱がある。多分彼女のヒートに当てられたと思う。薬はあったか確認するとなかった。薬は明日もらう予定だったのに、どうすればいいかわからずにただぼんやりと待合室で彼女を待っている。このあと先生に相談しよう、そう思っていたら目の前に誰か立った。誰だろうとぼんやりと顔を上げると松田さんだった。何でここにいるのだろうか。そういえば、今日病院に行くって伝えた気がする。
「まつだ、さん?」
「大丈夫か」
「だい、じょうぶ」
とても大丈夫じゃないけれども、松田さんは眉間にしわを寄せて私の膝裏と背中に手をまわして私を抱き上げる。横抱き、所謂お姫様抱っこをされた。松田さんの顔が近い。そして心地良い匂いも近くなった。
「先生のところに行くぞ」
「せんせい、しんさつちゅう、だから」
「さっき空いたらしい」
そう言って歩いて行く松田さんに私は首筋に頭をぐりぐりと寄せ付けた。松田さんの匂いがする、心地良い。ぼんやりとした頭なのにそれだけはっきりとしていた。診察室から友達が出てきて私を見て驚いた顔をしたがすぐに松田さんは横を通り過ぎて診察室に入る。先生は驚いた顔をした。
「ヒートね、薬はあの子にあげちゃったらしいから注射するわ」
「お願いします」
松田さんは私を椅子に座らせて私から離れようとした、それが嫌で思わず腕を掴んでしまった。
「はなれちゃ、やだ」
松田さんと先生は驚いた顔をしている。すると先生は困ったように笑う。
「松田さん、そばにいてあげて」
「っ、はい」
松田さんは私の隣にいてくれて私はぼんやりとする思考の中、注射を打たれて目を閉じた。
気が付くと家のベッドの上で薬は机の上にあった。起きて水を飲もうと思ってベッドから降りて部屋の扉を開けてリビングに行くと松田さんがいた。ソファの上に座ってぼんやりと上を向いていた。
「ま、つだ、さん?」
こちらに顔を向ける松田さん。その顔は何処か疲れていた。
「大丈夫か」
「大丈夫、です」
「そうか」
そう言って松田さんは笑った。まるで、よかったかのように伝えてくる彼に私は心が苦しくなった。どうして、こんなに心が苦しいのだろうか。本来の目的、水を飲もうと思って冷蔵庫からミネラルウオーターを出してグラスに注ぐ。そして口にして飲む。グラスをシンクに置いてリビングへ戻る。
「寝ないんですか」
「ああ、寝る」
そう言うくせに部屋に戻ろうとしない松田さん、どうかしたのだろうか。首を傾げていると松田さんはこちらを見る。松田さんが私の名前を呼ぶ。その声には甘さがあった。
「俺と番になってほしい」
どういうことだろうか、松田さんの目を見る。どうして、今になって松田さんは私と番になりたいのか。わからなくて松田さんを見る。松田さんはいたって真剣な顔をして私を見る。私の名前を愛しそうに呼ぶ。なんで、そんな声で私の名前を呼ぶの。ねぇ、どうして。松田さんのところへふらふらと覚束無い足取りで近づく。どうして、私は松田さんに近づいているのか。わからない、熱っぽい頭がぼんやりとする。松田さんに近づいて松田さんの前で脚の力はなくなってその場に座り込んでしまう。松田さんを見上げて視線が絡まる。心地良い匂いが強い。松田さんに項を噛まれたい。冷静になれない、手のひらに爪を立てて冷静になろうとすると松田さんに手を握られる。このまま、頷いたらどうなるのか。項を噛んでくれるのか。松田さんの手を離して手を松田さんに伸ばす。首の裏に手を回して松田さんの首筋に顔を埋める。心地良い匂いが強い、心地良い。フェロモンの匂いだと先生が言っていたけれどもその匂いがとても心地良い。ぐりぐりと松田さんの首筋に顔を寄せる。松田さんが私の名前を呼ぶ。松田さんから離れてぼんやりと彼の顔を見て、うまく動かない思考回路が耳障りな警告を鳴らしている。駄目だと訴えているのに、どうしてかこの乾いた喉を潤したくて唾を飲み込んだ。松田さんがほしい、乾いたと訴えている喉を潤してほしい。番になれば、この感情はなくなるのか。耳障りな音が鳴り響く頭に嫌気がして私は松田さんにこう言った。
「番に、なります」
滲んだ視界の中で、松田さんが笑った気がした。
目を覚ますと真っ白のシャツの釦が目に入った。項がピリピリとする。身動きをしようとしたら動けない、まるで誰かに抱きしめられているのかのようだった。ぼんやりとする思考の中私の名前を呼ぶ声が聞こえた。この声は誰のだろうか、聞き覚えがある。もう一度私の名前を呼ぶ声、嗚呼、この声は。
「ま、つだ、さん」
「起きたか」
ぼんやりとしていると松田さんは困ったように笑う。なんだろう、どうして私は松田さんと一緒にいるのか。身体を見ると服を着ている、どうやら抱かれたわけではないようだ。そういえば、昨日の夜、番になることを決めたんだっけ。松田さんの顔を見ると松田さんは私の髪を撫でる。どうして、番になることを決めたかを忘れてしまった。どうしてだっけ、頭が痛い。松田さんが私を抱きしめて肩口に顔をうずめて松田さんの匂いに包まれる。そんなこと、そんなことではなかったはずなのにどうしてそんなことになっているのか。わからずただ松田さんの匂いに包まれているとどうでもよくなった。
「起きるぞ」
その言葉に頷いて松田さんのそばから離れる。項に違和感があって項をなぞると噛んだ痕があった。番になったんだ、そうわかった。絶望感はそんなに感じなかった、幸福感も感じなかった。番になった実感すらわかなかった。松田さんはどこか嬉しそうでいつもより顔が緩んでいた。この人は、私と番になりたかったのか。本能なのか、それとも理性からか。横顔を見ていると松田さんは視線に気付いて笑う、まるで愉快げに。
「どうかしたか?」
その言葉の裏に何が隠されているのか私にはわからない。わかる余地もない。αとΩで、運命の番で、番になったのは私が承諾したからで。あれ、なんで私は承諾したんだろう。たしかヒートが来て、松田さんに言われるまま頷いて。それから。あれ、記憶がない。どうして、どうして。松田さんが私の名前を呼ぶ。考えてはいけないと言っているように。思考を邪魔するかのように松田さんは私の名前を呼ぶ。
「何か考えたか?」
「な、なにも」
「そうか」
それを褒めるように松田さんは私を抱きしめる。まるでいい子かのように頭を撫でてフェロモンの匂いを強くさせた。頭がぼんやりとし始めた。駄目、駄目、だめなのに、あれ、なんでだめなの。
学校に連絡をして今日は休むことになった。ヒートであることに変わりはないので自分の部屋にこもろうとしたら松田さんに捕まえられてリビングのソファの上で松田さんの膝の上に向かい合って座っていた。肩口に顔を埋められて腰に手を回されて身動き出来ない状態。首筋に松田さんが少しでも動くと髪の毛が当たってこそばゆい。松田さんは今日はお休みらしくスーツからラフな格好でいる。イケメンは何を着ても似合うというが本当だった、というか選ぶ服すらかっこいい。私は灰色のブラウスに水色の膝丈のシフォンスカートを着ているが定番というかなんというか無難な服である。何度も松田さんと買い物に行っているが松田さんが選ぶものはセンスが良くて着こなせる自信がないのに試着している間に買っていくのだ。おかげで今までないに等しかった私服の種類が増えた。松田さんは女性の買い物に辟易するタイプだと思っていたのに。話題は逸れたが松田さんがどうしてか私を抱きしめている状況だ。今までそんなそぶりを見せなかったのに。番になったからか、状況が状況だから頭がパニックを起こしている。いままでそんなそぶりを見せなかったイケメンが何故か私を膝の上に乗せて抱きしめているこの状況は一体何か。多分何文字にしても答えは書けないと思うのだ。わからない、それが私の答えだからこれは点数が取れない。もっと勉強しておけばよかった、いや何に対してだよという突っ込みは添えなくていい。どうしてこんな状況なのか。ヒートは薬を飲んでいるから収まっているがどうして松田さんはこんなことをしているのか。手っ取り早く聞けばいいのだが、何といえばいいかわからない。松田さんの髪に手を触れると思ったよりふわふわしていた。松田さんの顔は見えないのでどんな顔をしているのかはわからないので感嘆の声を出したら松田さんが私の肩口から顔をあげた。松田さんの視線が私の顔に向いている。どうかしたのだろうか、松田さんの顔を見ると黒い瞳が私の顔を映していた。今気付いた、松田さんの瞳は黒いだけじゃなくて光によってはほんの少し蒼く見える。松田さんの頬に触れて瞳をまじまじと見ていると松田さんは困ったように顔をしかめた。見過ぎた、松田さんの頬から手を離して離れようとすると腰に手をまわしていた松田さんがぐいっと私を自分の方に寄せてきて松田さんの首元に抱きつく形になった。松田さんの顔が近い、いやさっきも顔が近かったけれども。松田さんのフェロモンが強く匂う。それが心地良いのはもう当たり前で、松田さんは私を抱きしめた。体格差があるのは当たり前で、松田さんの胸の中にすっぽりと納まる私、松田さんってこんなに大きいんだ。関わらないように過ごしていた二年間で知らなかった松田さんのことが今日、多く知っていく。心臓の鼓動が、こんなに心地良いなんて知らなかった。知らないことだらけの私に松田さんは何も言わずに教えてくれる。松田さんは私の頬に触れる。その手の温度は私と違うのは当たり前なのにどこか嫌な気分で松田さんの目を見る。暗闇の中の海のような瞳を見ていると松田さんが顔を近付けてきた。嫌な感情は一つもなくて、ただ顔を近付けられて息を感じ取れる距離になった。このままキス、するのだろうか。顔に熱がこもっているのは当たり前で松田さんの瞳に顔が赤く染まっている私が映っている。
「なぁ」
息が唇に当たる、胸の鼓動がはやくなっているのがわかる。フェロモンの匂いもする、心地良い匂いが頭の動きを鈍らせる。松田さんにキスされたい、滅茶苦茶にされたい。
「まつ、ださ、ん」
「キス、していいか」
その言葉に頷く。目を閉じると、唇に柔らかい触感が当たる。キス、したんだ。そう思って唇が離れて行くのを感じて瞼を開けると松田さんがいた。
「初めてか?」
「はじめて、です」
「そうか」
どこか嬉しそうに笑う松田さん、顔が真っ赤になっている私に松田さんはただ抱きしめた。
番になったからと言ってまわりに報告するのは私が高校を卒業してから、ということになった。流石に仕事柄高校生と番になったとは言えないらしい。私もそれで頷いた。今日は松田さんは仕事で私はまだヒートの期間なので学校を休んでいる。担任の先生に単位はとれているから学校に来なくても卒業は出来ると言われた。そういえば私と松田さんは籍をいれるのだろうか。そもそも私は松田さんのことが好きなんだろうか。松田さんは、私のことを好きなんだろうか。なんで番になったのか。松田さんが番になってほしいと言ったから、私が頷いて、それで。そういえばなんで私は頷いたのか。うまく思い出せない。どうして、私は頷いたのか。最近松田さんのフェロモンの匂いが強くしてうまく考えられなくなった。なんで、松田さんはそんなことをするのかわからないけれども。どうしてだろうか、そういえばあのときも、フェロモンの匂いが強かった気がする。うまく、考えられなくて、それで、それで、それで。そのまま私は頷いたのか。そしたら話が納得がいく。松田さんはあのときのことを思い出させないようにフェロモンを強く出していた、でもどうして番になってほしいと言ったのか。そこがわからなかった。無理矢理頷かせたことにはどうでも良かった。将来、松田さんと番になることしか道は残っていなかった。今更逃げ出しても住んでいた家は売り払われたし親とも連絡を取ろうなんて思っていない。そして、松田さんのことを嫌に思わなくなった。多分、松田さんのことが好きになったんだと思う。そうでなければキスなんてしない。唇に触れてあの感覚を思い出してしまう。もう一度、したい。なんて松田さんに言ったら困らせるだろうか。もっと、もっと松田さんに触れていたい。そう思うようになったのは松田さんの肌の温度を知ってしまったからだ。夜を一緒にしたが身体の関係は持っていない。それでも私は、松田さんと一緒にいたい。そばにいたい、松田さんをもっと知りたい。これが恋なら恋というのは厄介なものだ。こんなに松田さんに触れたいのだから。ヒートではない、抑制剤を飲んでいるのに、どうしてこんな感情が生まれていくのか、多分私は松田さんのことを好きなんだろう。この感情を伝えたくて、松田さんが帰ってきたら、なんと伝えようか。ソファの上でクッションを抱えて松田さんの帰りを待っていた。
がちゃりと鍵が開く音がした、微睡んでいた私は目を擦って玄関の扉を開く前に玄関に向かう。その前に玄関の扉が開いてそこには、松田さんがいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
松田さんに抱きつく。松田さんは驚いたようだけれども私を受け止めた。松田さんのフェロモンが香る。
「薬は飲んだか」
「飲みました」
「どうかしたか」
多分ヒートだと思われている。ヒート以外のときに松田さんに抱きつくなんてことはしたことがない。
「私、松田さんのことが好きです」
松田さんが動かなくなった。顔を見ると固まったままだ。
「松田さん?」
松田さんは次第に顔を赤くしていく。私は松田さんの顔をまじまじと見ているとついに顔を手で覆った。
「どうかしました?」
「あんま見んな」
松田さんは恥ずかしそうにしている。いつもはかっこいい松田さんなのに今日はかわいく見える。思わず笑ってしまい松田さんは私を真っ赤な顔で睨む。そんな顔をしてもかわいいだけなのに。
「松田さん、私返事がほしいです」
そう言うと松田さんは私の耳元にまで顔を近づけて囁いた。
「俺もお前が好きだよ」
その言葉に私は松田さんにまた抱きついた。
やっと彼女が俺の手元に堕ちてきた。
ふわりと花が咲いたように笑う彼女を離さないように抱きしめる。決して運命の番を離してたまるものか。本能がそう訴えている。ここまで来るには二年間、時間をかけて彼女を堕としてきた。結婚式もして籍も入れなければ。彼女を逃したりはしない。やっと、俺の手元に堕ちてきたのだから。そう簡単に逃したりはしない。
最初はどうすべきか悩んだ、両親から見捨てられたような子ども。それが運命の番だった。一人で暮らさせている、その事実を聞いたとき彼女はどんな気持ちで一人で暮らしていたのか両親は知っているのか。Ωが犯罪に巻き込まれる確率はこの犯罪率が多い米花町でも高い方だ。今の時期思春期であるはずなのに親がいないとどうなるのか、考えたことがないのか。今すぐにでも殴りたかった、それでも我慢した。運命の番の父親と母親は彼女の意思に関係なく番になってほしいと言った。後から聞いた話だと彼らにはほかに浮気相手がいたらしく、彼女は政略結婚のときに出来た子どもだった。愛なんて微塵ももらっていなかったのだろう、だから運命の番などいらないと言ったと思う。そんな彼女は俺のもとで暮らすことになった。最初は保護のつもりでいた、部屋の一部屋余っていた、今は彼女もいないから。金銭面は彼女が高校を卒業するまで彼女の両親が養育費を払うと言われたのでそれに甘えることにした。思春期で多感な時期、彼女は必要なものがあるだろう。彼女が必要とするものを自分で買わせるために高校生にしては多めの小遣いを渡していた。運ぶときに荷物が少なすぎた彼女は部屋にも必要最低限の荷物しか置かなかった。それが普通だと思っているのだろう。そんな彼女との生活は最初は気まずかったが、次第に心地良いものになった。家に帰れば彼女が食事を作って待っている。一人暮らしをしていた彼女は家事をしてくれるようになって俺に負担はかからなくなった。これぐらいさせてほしいと言った彼女は次第に愛しい存在になった。運命の番だから、そういう理由もあるのかもしれないが、それを抜きにしても彼女は感情の起伏もないことが欠点だがちょこまかと動き、挨拶もちゃんとして俺のために尽くしてくれる彼女を、俺は愛しいと思えた。その感情が劇的に変わったのは彼女がヒートを起こした時だった。初めてのヒートの時に親に殴られても泣かなかった彼女が子どものようにぼろぼろと泣いたとき、彼女が欲しいと思った。喉から手が出るほどほしいと思った。今すぐにでも抱きたい、番になりたい、項を噛みたい。そう思うようになった。この関係を崩したい、そう思ってしまった。未来が心配なら俺の番になってほしい、そう言いたかったけれども我慢した。
あれから数年経って、彼女との関係は変わらなかった。少しは近付いた気がするがよくわからないのが本音だ。あと、彼女はよく見ると感情豊かであることを知った。よく見なければわからないが小さなことに顔をほころばせたり嫌なことがあれば顔をしかめたりする。泣くことはあの時以降見かけていない。時折、俺が彼女を笑わせたいなんて思うようになったのは彼女のことが好きになったからだろう。運命の番だから好きになったわけじゃない。彼女だから好きになった。そう思っている。今日は久しぶりの強制的に参加させられた飲み会で見知らぬΩに近付かれてべたべた触られた。気分は最悪なものでそのまま家に帰ってシャワーでも浴びたかった。早めに家に帰ると彼女はリビングでソファに座っていたらしくソファから立っていた。そのまま座っていればいいのに、彼女のフェロモンは心地良いものでべたべた触ってきたΩなんかより彼女のフェロモンを感じたかった。彼女は少し顔をしかめて俺に抱きついてきた。はっ、いや、なんでだ。そう思って彼女を見ているとシャツに顔を押し付けてまるでマーキングのように自分のフェロモンの匂いをつけていた。その姿にぽかんと見ていたら彼女は満足したようで顔をあげてこちらを見て、先ほどしたことを思い出したのかみるみるうちに顔を赤らめて俺から離れて自分の部屋に入ってばたんと部屋の扉を閉めた。
「卑怯だろ……」
まるで、俺が誰かものになるのを嫌がったかのように見えた。期待しても、良いのかもしれない。彼女も俺に惹かれているのか。それとも、運命の番だからか。どちらにしても俺にしたら嬉しいことだった。フェロモンをつけてきたΩに感謝したいくらい俺は嬉しかった。
その彼女が今日は病院だということを知っていた。珍しく定時で帰れたので家に帰ると誰もいないだろうと思って彼女が通っている病院に行くと待合室にぼんやりとしている彼女を見つけた。なにをしているのか、そう思ったら彼女のフェロモンが異常に香る。可笑しい、ヒートはついこの間来たはず。誰かに当てられたか、そう思って受付に彼女のかかりつけの先生は空いているかと確認した。するとちょうど診察が終わったと聞いたので今すぐ彼女の診察をできるか聞くと大丈夫だと言われ、彼女に近付く。彼女の熱がほんのり籠った目がこちらに向く。身体の調子を聞くと大丈夫だと呂律が回らない状況で言われた。そんな状態を人は大丈夫だと言わない。そう思って彼女の膝裏と背中に手をまわして横抱きにする。先生の診察を頼んだことを話すと彼女は俺の首裏に手をまわして首筋に顔を寄せた。俺が彼女のフェロモンを心地良いものと思うように彼女も俺のフェロモンが心地良いのだろう。先生の診察室まで運び、椅子に座らせてから離れようとしたら腕を掴まれた。舌足らずに離れたくないと言われ思わず面を食らった。あの彼女からそんな言葉が出るなんて思わなくて固まっていると先生が笑った。そばにいてあげて、そう言われて彼女のそばにいると彼女は安堵したようで注射を打たれて意識を失った。
「それにしても、変わったわねこの子。あんなに運命の番はいらないって言ってたのに」
「そう、ですね」
確かに変わったと思う。彼女は俺と暮らすにつれて人を頼ることを覚えた。前まではそんなことができない状況だったからかもしれないがそれでも俺を頼るようになった。
「いつ番になってもいいわね」
「彼女の意思次第ですから」
「わかっているわ、でもこの子はこんなに松田さんを慕っているんだからいいかもね」
そう笑う先生に俺は何も言わなかった。
彼女に上着をかけて診察室から出ると彼女と同じ制服を着た女子がいた。彼女の姿を見て安堵していた。多分彼女の友人だろう。さっき先生が友人のヒートに当てられて薬を渡したと言っていた。多分その子だろう。頭を下げてその場を去ろうとしたら捕まった。俺に何の用があるのか。そういう目で見ると彼女は一瞬怯えたが背筋を伸ばしてこちらを見る。
「その子の、運命の番ってあなたですか」
「それがどうかしたか」
「その子、将来について悩んでました」
その言葉に俺は彼女を見ると彼女は何か確信を得ていた。
「貴方ですよね、この子の将来を奪ったのは」
彼女の保護者でもある俺は、彼女の進路について考えた。彼女の担任は彼女の家庭事情を知っているからか俺が来たことに驚かなかったが運命の番ということには驚いていた。そして進路希望調査を出していないことを言われた、彼女がどこか遠くに行く、それだけは嫌だった。だから高校卒業と同時に番になる予定、そう言った。Ωで女である彼女は進路に悩んでいたらしい。人より早くヒートが来て内申点も点数もβ並み、Ωであるなら進学するためにはもっと内申点も点数もほしいところだった。就職をさせないようにして、俺の手元から離れないようにした。そしたら、俺と番になるしか道はなくなるから。
「どうして、将来を奪ったんですか」
「どうしてだろうな」
答えになっていないことに彼女はこちらを睨んでくるが女子高校生の睨みなど怖くもない。じっと見下ろすように彼女を見ると彼女は目線を逸らした。
「この子のこと、どうするつもりなんですか」
「あんたには関係ないだろ」
「っでも!」
「こいつと俺の問題だ」
それ以上口を出すな、そういう意図を込めて見ると彼女はスカートの裾を掴んで歯痒そうにしていた。運命の番のことを大切に思ってくれているのがよくわかる。
「彼女は、番になることだけがΩの幸せじゃないって言ってました」
ああ、運命の番はそういう奴だ。でも、ヒートが来て怖くなったことを彼女には話さなかったのだろう。彼女はこれからの将来、何が怖くなるのかまだ知らない子だ。
「将来を奪ったのなら、番になってあげてください。この子のこと、幸せにしてあげてください」
頭を下げてそう言った彼女に俺は何一つ答えなかった。
今日は疲れた、そのままベッドに倒れそうだった。色々とすることがあるのに。天井を見ながら運命の番のことを考える。色々と考えたが頭を使いたくなかった。もういっそのこと、あいつと番になれたらいいのに。そしたらどうなるのか。そんなことを考えていると彼女が部屋から出てきた。俺を見て俺の名前を呼んだ。それだけで休まった気がする。彼女は台所でグラスを出して水を飲んだ。シンクに置いてそのまま部屋に戻るのかと思ったら、こちらを見て寝ないのかと聞いてきた。もし俺が番になってほしいと言ったら彼女はどんな顔をするのか。自分でも甘ったるいような声で彼女の名前を呼ぶ。頼むから、俺を否定しないでほしい。
「俺と番になってほしい」
彼女の項を噛んだとき、俺は幸福に満ち溢れていた。
今、その彼女が俺のことを好きだと言った。これほど幸福を感じたことはないだろう。ああ、項を噛んだときもこのような幸福だった。腕の中で笑う彼女を決して離さない。そうだ、指輪も買わなきゃな。結婚式はいつするかも決めなければ。籍を入れるのは高校卒業と同時がいいか。流石に警察官と高校生が結婚だなんてまわりが五月蝿いからな。お前がそれを望むのなら俺はどうだっていいが。もう決して離さないからな。
「松田さん、苦しい……!」
「結婚式はいつしたい?」
「は、え?」
「籍も入れような、ウェディングドレスも一緒に決めような。両親を呼びたくないなら二人で挙式しよう。披露宴は友人だけ呼んで会費制のパーティーでもいいな。指輪も一緒に決めるぞ。いつ空いてるか俺も確認するからな。時期はいつがいいか決めておけよ、俺も空けておくから。ああ、あとそれからもう少し食べるようにしろよ、ウェディングドレス、気に入ったのが大きくて着れなかったら悲しいだろ。お前のことだから似合うドレスはたくさんあると思うんだ。あとそれから」
「ま、まつださん?」
「全部、お前が高校を卒業してからやろうな」
そう言って彼女の唇にキスを落として抱きしめた。彼女は少し抵抗したが腕の力を強めたら彼女はおとなしくなった。恥ずかしいのだろう、これからのことを考えると楽しみがたくさんある。自分でもわかるくらいに嬉しくて彼女の名前を呼ぶ。
「これから幸せになろうな?」
幸せ、私はこれから幸せになってもいいのだろうか。松田さんの腕の中でそう考える。誰もが幸せになる権利を持っている、そう聞くが私も、幸せになってもいいのだろうか。
「私、幸せになっても、良いんですか」
「ああ、俺が幸せにする」
その言葉に私は涙を零した。ああ、やっと幸せになってもいいのか。涙がぼろぼろと零れだして松田さんの服を濡らす。
「しあわせに、してください」
その返事のように松田さんは私を強く抱きしめた。
これが夢であってほしくない、そう思えるほど私は幸せだ。小さい頃は両親に愛されない私はこれが夢であってほしい。そう思ってしまうほどだったのに、今ではこれが夢であってほしくないと思ってしまうのだ。ある日目を覚ましてそれが夢だった、なんてことは嫌だった。だから、今日も目を覚まして朧気に陣平さんを探してしまう。夢ではないことを証明してくれる彼を、こんな私を愛してくれる彼を私は探す。部屋から出てリビングで珈琲を飲む陣平さんと目が合って珈琲が入ったマグカップをテーブルに置いたことを確認して抱きつくと陣平さんは私を受け止めて抱きしめてくれる。それだけで今日もまた夢ではないことがわかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日も好きですよ、陣平さん」
「俺もだよ」
そう言って私の名前を呼んで唇にキスを落とす陣平さんが私は好きだ。長い夢ではない、これほど幸せになってもいいのか悩んだこともある。それでも陣平さんはいいんだと認めてくれた。ならば、それでいいんじゃないかな。そう思って今日もまた一日が始まった。